ブッシュ大統領訪欧もたいした展開はなく、あくまで見世物としての政(まつりごと)に終始したようです。TV映りもよろしくないようで、というか大統領の顔が見えるとザップする(仏現代語でTVチャンネルサーフのこと)B型アレルギー患者の多いこの地では、受けなかった。米国本土におけるB型患者の皆様には深く御同情申し上げる次第です。
印象に残ったことばは、ブッシュ大統領が、シラク大統領をテキサスのランチに招待しますか、というジャーナリストの質問に 『I need a cow boy.』 と答えてたんですねえ。どういう意味じゃ。さすが大狸シラック、横でヘラヘラ笑っておりましたが。 あとブッシュはドイツでの演説で 《EUは米国にとって最も強い同盟》とか言い切ってた。え。あれ、日本は米国にもう脳内同化されちゃったわけですか、そうですか。
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国際政治関係には疲れてしまったというか、本当は横字を読むのに疲れただけなんです。玄米茶に東京名物ひよこ。窓から雪のちらつくのを眺めながら日本語を読む快楽に(久しぶりに)目覚めてしまった、イケナイ。でもって日本語読書系で今日も行ってしまいます。
昨日は簡単に終わってしまった《ブラフマンの埋葬》ですが、なにやら時間差おいてじわーっと効いてきたような。某小川ファンと話したせいもあるんですが、小川洋子さん、ちょっと深いぞ。こないだから考えてるんだけどまだもわもわしたままの《癒し》ということばとも、そんなに遠くない場所をグルグルしてるのがこの作家かもしれません。
私たちの心はいつのまにか傷ついていたわけです。まあ、世間に電波している大方の《癒し》は、単なるマーケティングにすぎない。《癒し》をググって出てくるURLの95パーセントぐらいは、なんかを売る目的でこのことばを使っているでしょう。昔は趣味とかスポーツとかレジャーとか使っていたのを置き換えただけだ。
それはまた別の話ですねえ。小川の洋子さんにもどろう。ブラフマンという本を通して脳内リンクでやってくるのは、まずサンスクリットのブラフマン/創造者、です。泉や古い墓地、大昔の死者埋葬のしきたりには、折口・柳田などの民俗学、あるいは古代神話が絡んでくる。村の様子にはどうしても大江の書いた村や森のイメージが呼び起こされる。キレイ好きで寡黙な主人公には(アフターダークを読み終えたばかりのせいもありますが)村上春樹の小説に登場する青年が重なります。(個人的読書系でいうと、芸術家を集めて創作させる家というセッティングには、エイズで死んだエルベ・ギべール/Hervé Guibert の本を思いだしていました。ローマにはメジチの家(だったと思うが)という仏政府が資金を出す似たような施設がスペイン広場のそばにある)
あれだけの文字量で、かなりの想像世界を膨らませることができるってのは、才能なんでしょう。私でさえこれだけ引っ張ってこれるわけですから、人によっては大洪水になるかもしれないすね。肝心のブラフマン、この小動物については、私は物語の最初に〈こりゃビーバーだね〉とノミネート、カタログ分けしてしまったせいか、想像力はついてこなかった。
ただ、ブラフマンがある意味(恋もちゃんとできない)主人公の深い孤独を癒す、また主人公と自然/宇宙を結びつける存在だった、ということは言えると思います。私たちの心が傷ついてしまったのは、あまりに自然から離れてしまったからだ、と言い切る力はまだnekoyanagi にはありませんが。
とうことで、《ブラフマンの埋葬》は宇宙を内側に秘めた物語です。
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夏目漱石の《吾輩は猫である》、もうそろそろ再読してもいい時分であろう、と昨日は思ったのですが、何をトチ狂ったかマンガにたどり着いてしまった。今日手にしたのは夏目房之介著《マンガの力》。現在の日本マンガ文壇に関してはまったく無知なんですが、この本のあつかうマンガの半分は私も知っているし、現在の日本文学作家はどう見てもマンガの影響を受けてるし、昔は物書きになった才能もきょうびはマンガに流れたんじゃないか、、という疑問もあったのでこの本、読んでみる気になった。でもよく考えたら房之介氏は漱石の孫なんですんねえ。やっぱ、どっかでリンクしとるぞ、俺なりに。
ethique と estethique 、日本文化としてのマンガについては、またあとで書きます。
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