アジアという言葉を思うと、まずあの坂本教授作の《戦場のクリスマス》のテーマミュージックが厳かに、しかもあくまで軽く頭の中を流れるわけです。それもエンドレスで絶え間がない。だいぶ昔に友人がやってた素人日本料理レストランで、この曲のテープがエンドレスにかかっていたってのがBGM選択要素でもあるんだが、あのなんというか、平和なスローテンポの金属系オトである。そして湿気の多いあの空気がもわっと私を包むわけです。
そして頭の中に見えてくる風景は私の知ってる日本じゃないようである。たぶん一回行った事のあるバリだな。丘の上にある現地ホテル(100パー洋式ではないという意味)の部屋のテラスから見えた景色だ。小さな山と山並みから谷にかけて耕作された田んぼ、幾何学模様じゃないクラシックタイプの田んぼの間をうねる小川。小川にかけられた水車式音楽装置は竹製だろう、ポックリポックリのどかに回り続ける。ルームサービスで頼んだフルーツカクテルを飲みつつテラスにしつらえられたベンチというかまあベッドのようなものに寝そべってあたりを眺めていると、島特有の通り雨がサアーっと降りしきる。そして雨はやみ、またしても天気は良いのだ、島雲がぽっこん浮かんでおる、、、、なのである。
アジアだ、私のふるさとだ。日本には(たぶん)もうなくなっちゃった幸せなのである。映画《トトロ》風景に似てなくもない。そしてその風景の中には、バリでもそうだったが、人がいるんです、なんとなく。風景の中心でもなく風景のお飾りでもなく、居るべくしているわけ。用が済むと居なくなったり、また現れたりするんですが、これがよい。まだ行ったことはないけどベトナムの話なんか友人に聞くとやっぱりこんな感じらしい。もっさりした空気と田んぼとそれを取り巻く緑の多さ、それに人。
同じアジアでも北京のあたりになると乾いていて田んぼもない。人もあんなカンジでのんびりはしてないな。広東語でもいまいち、気の抜け方が足りない気がする。日本語でも大阪弁や標準語ではかなわん思いが強い。なんでだろう。
八丈島がこのカンジから遠くなかった。ブーゲンビリアと海とそこここの畑。決して走らない島の人。なにより時間がゆっくり経っている。野菜や台風や黄八丈が育って大きくなってまたなくなるそんな周期と一緒に時間が経つのですよ、きっと。八丈島にやってきた欧州人は《昔の日本はきっとここみたいだったんだろう》と言った。たぶんそうなんだろう。
私の育った東京近郊もそんな風だったのかも知れない。あたりを冷静に観察する暇は子供の私にはなかったから断言は出来ないが、案外そんなだったのかもしれない。現在の故郷のイメージが強すぎて思い起こせないだけだと考えれば、借りてきたバリの風景を懐かしいと思うのに無理はないのかもしれない。結局私が帰りたい故郷はバリなのか、そうか。