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2006-06-10

コメント

saisenreiha

反オリエンタリズムというのが、どういう意味なのか今一つ分かりませんが、あの部分が面白いのは、あの親子と言うよりは、富野さんの奇人ぶりですね。あの人は、『ガンダム』に過剰な意味づけをする人の前では、必ずああいうことを言うんですよ。だから、boxman さんが「志村後ろ、後ろ」って書いてたわけです。もう、ああいう質問をされて、富野さんが何を言うかなんて、分かり切ってますからね。
でも、海外から期待に胸躍らせてやって来た子供を前にして、全くリップサービスをせず、そんな子供の夢を粉々に打ち砕くような身も蓋もないことを平気でいうその大人げの無さが、何とも言えず富野さんらしくて、思わず笑っちゃうんですよね。

猫屋

どうも、saisenreiha氏こんにちは。
日本は1984年までしか知らないから、富野さんのキャラには詳しくない。一回こっちのTVアルテでインタヴュー見たことあるけど案外普通の人だった気がします。でも凄い人ですねえ。

反オリエントというか逆オリエントというか、こっちの日本オタクの日本ビイキの引き倒しってのはあるんで、こっちも“後ろ、後ろ”って感じになる時がある。それで笑った。フランスのハンディキャップ少年が日本まで車椅子で宮崎に会いに行くと、宮崎氏はTV企画ラインのまま極めてヒューマンに少年に対応してたりするわけで、それに比べると富野さんは過激だ。

“なんだ、ガンダムか。”ではなくて、もう少しフォローしてみます。面白そうだ。

天神茄子

boxman 氏が解説>読みに行きました。ちょっと大江健三郎の初期の作品、題名忘れたけれど、ある老人が学生アルバイトを雇って現代の状況を説明させる、すると学生は自分が言っていることに滅入りはじめてしまう。で瀕死のはずだった老人は打ちのめされた学生が帰ったあとヨイショとばかりに車椅子から立ち上がり『最近の学生はダメだね』と看護婦に言う。看護婦は看護婦で『そんなに学生さんをいじめるもんじゃありませんよ』とか何とか答える、そういう短編があったはずなんですが、それを思い出しました。

猫屋

大江の初期の作品だとすると彼自身学生だった時分ですよねえ。
この短編は読んでない気がします。

ぴこりん

どうもです。天神茄子さんのところにも書いたのですが、この著者、「オスカーとルシンダ」を書いた人なんですね。
だから、この本もどこまで実話なのか・・・富野さんのインタビュー自体は本物かもしれませんが。
オリエンタリズムと言っても、日本における欧米(とくくりたくはないが)の文化の受け入れ方も大差ない気がするのですが、
どうでしょう。

猫屋

ぴこりんさん、ども。
猫屋はガンダム富野さん自体も、この著者のことも知らないから、めったなことは言えません。
“オリエンタリズム”という言葉を使ったのは、“J t'aime Moi non plus”的差異が差異のまま平行して行っちゃう現象がハタの人間には面白かったりする。そういうことです。でもって差異を強調することでコミュノタリズムが形成されたりもするんだけれど。書いてる本人もまだよく分かってないですよ、、、たぶん。結局はコマーシャリズムというアナボコに落ちるんだけどね。

猫屋

追加:てか、グロバリ化した新世界ではかえって横並びで見たほうが理解しやすかも、とも思う。いつかfenestrae氏とも話したんだけど、国は違っても学者さんとか医者とかジェットセットのビジネスマンとか普通の人とか失業者まで、難民もだけど、おんなじような格好をしておんなじような新聞読んで、おんなじようなTV番組見て、おんなじ本読んでたりするでしょう。その伝でいくと世界中の(少なくとも若干金のある)ティーン・エイジャーは同じマンガに熱を入れてるし、聴いてる音楽だってそんなに差がないわけだ。日本の若いガンダムファンだって、予備知識なしに監督に会えば同じ経験をするのかもしれない。

かえって、グロバリ化した世界では、“国家”というタガが外れかけてて、マーケティングという流動的枠がそれに代わろうとしている、としたら何でナショナリズムが流行っちゃうのかも理解しやすくなるかもしれない。それって安上がりだしさ。

でもバルカンの分割もキリがないわけで、あんまりいい方向には進んでいると思えない。

と、話は全然違う方向に言っちゃうわけだけど。でも、マンガを通じて“日本を理想化するティーン”が多いことは事実なんだよね。廻りの子供には、日本の管理社会がマンガワールドを作ってるんだよ、みたいなこと(怒られそうだけど)、言って見たりする今日この頃です。あと、マンガはとにかく暴力的だから禁止とかいう親も多いしね、ほんとうはそんなに単純な問題ではないんだけれど。

saisenreiha

あの本の他の部分は知りませんが、富野さんの部分は、外国人とか日本人とか全く関係ないです。富野さんは、誰に対しても、必ずああいうことを言うので、日本人のインタビュアーも、いつも同じ目にあってるんですよ。ただ、わざわざ外国から来た、しかも子供にも、いつもと何ら変わらない身も蓋もない答えをしていたので、余計に面白いんですよ。富野さんらしいなって。

アニメ好きの外国人が、日本に変な幻想を持っていることが多いというのは、当たり前のことだろうと思います。だって、彼らは、日本の極一部しか知らないんですから。それは、日本人が、外国に、変な幻想を持っていることと合わせ鏡で、その最も大きな原因は、単なる知識不足だろうと思います。知らない部分は、推測で埋め合わせるしかないので、現実とズレが生じるのは仕方がないと。ドイツでも、「ドイツがこんな国だとは思わなかった」って言っている人いました。

富野さんと言えば、おもちゃを売るためのロボットアニメを作っていたにもかかわらず、本人の言とは異なり、子供に喧嘩を売っているとしか思えないような、人間の業を情け容赦なく描いたような作品を延々と作り続けた人です。彼の作品はほとんどテレビアニメで長いので、見るのは大変ですが、個人的には『伝説巨神イデオン劇場版 接触編/発動編』をお薦めします。

このうち『接触編』は、テレビの総集編なので、見てもさっぱりわけがかわらないと思いますが、にもかかわらず『発動編』には一見の価値ありです。この作品は、現在でも語りぐさになっているほどの凄まじい内容で、「皆殺しの富野」の異名は伊達じゃないと納得させてくれます。狂気じみたラストシーンと言い日本アニメ史に残る怪作ですので、機会があれば是非ご覧下さい。

猫屋

おおsaisenreiha 氏、核心をつく解説ですよこれは。

富野さんの対応の仕方が一般的エンタメ・プロトコルから外れてて(猫屋にはそれが本気なんだか、一種のテレみたいなトコから来るのか、もともとそうゆう姿勢の人なんだかわからないわけだが)、その外れ方自体がファンには“面白い”わけなんですね。この場合“被害者”が外国少年であるというのは二次的と言っていいのかな。

ガンダムのプラモは外来ティーンがプラモ屋に入ったとたん点目になるのを何度か目撃してるし、本屋のマンガ・コーナーでの立ち読み族の多さからも、フィーヴァーぶりは知ってた。ル・モンド・ウェブもかなり尖った日本マンガをフラッシュ化して紹介している。

外国に関する“変な幻想”、これを猫屋はオリエンタリズムと大枠で括るわけなんだけれど(またサイードという作家が米国籍を持ち、USAで仕事するキリスト教徒であって、オリエンタリズムという本は欧米人を読者と想定して書かれているとか、の点に関してはここでは立ち入らない)、これは日本に独自のことなのか、他の国でもそうなのかはわからんけど“日本は特別な国である。どこが特別なのかは言語化できない、そういうもんだ。”つー共通概念みたいのがあるよな気がするわけだ。(ま、フランスって国は例外、という言説あるわけだけど。最近あまり流行ってない。)
これが事実か否かは別として(てか、意識的に言語化しないという日本作法はあると思う)、そんなレベルを富野さんは平気に超越しちゃってるのかもしれない。それが“カリスマ”化にもつながる。

ガンダム自体は見たこと読んだこと全然ないんだけど、自分は少年マガジン・少女フレンド・ガロ・コムで育っているわけだし、カムイ伝とか平気で読んでたものの奥の深さはずっと後になって気がついたりしてるわけです。『伝説巨神イデオン劇場版 接触編/発動編』はこの夏、日本に帰ったとき借りてきて見てみます。あるいはガンダム・ファンの仏人にも話を聞いてみる。興味あり。

マンガの世界制覇、ってのはマンガが文学・映画・元来の洋マンガが表現できてなかったもの、=時間性の二次元空間への取り込み、そこから来る感情レベルでのグラデュエーションみたいなものの流通を可能にしてるんで、古典的文学や映画や音楽に近づかない世代に受け入れられた、ってな風に受け取っています。自信まったくなしだけど。言語化できない部分を共有させるツール、とか。(手塚治が映画的手法を取り入れた、とかはよく言われていますね。)

そんなこんな、を踏まえて言えば富野さんとピーター・ケアリーさんの間には意識化されてるかいないかは別として、一種の共犯関係みたいのがあるんじゃないでしょうか、と思います。少なくとも、二者ともフランス語で言う、第一段階・第二段階を越えた第三段階での(メタレベル?)ヒネリというか、オチョクリが両者にあるんだろう。

いや、富野さんとピーター・ケアリーさん、両者の作品をまったく知らないでよくも長々と書けるなあ、猫屋。なんですが、天神茄子氏がWrong About(仏訳)を購入するみたいなんで、感想も伺いうまくいったら貸してもらいます 。

saisenreiha

ある国の特徴とか、ある国民のメンタリティーや考え方を、きちんとしたかたちで確認するというのは、なかなか難しいものだと思います。たとえば、日本人とフランス人の文化、メンタリティーは間違いなく異なると思いますが、その文化、メンタリティーが、個々人にどれくらい当てはまるかということは難しいだろうと思います。同じ国の人間でも、個々人でメンタリティーが大きく異なるので、個人を見ただけでは、その国の文化がその人の行動や言動にどの程度反映されているかは、何も言えません。

ある人が、異国を旅したときには、自分の目の前にある、個々人、個々の個別的状況を、一般化しようとする気持ちが大きく働くので、個々の例外的事項を、安易に一般化してしまうということがほとんど必然的に生じるだろうと思います。この危険性は、ドイツにいるときに、本当に切実に感じました。気を付けていても、すぐに一般化してしまいたくなるので。

ケアリーさんが日本で会った人、見たものは、多分日本でも、かなり変な人たち、かなり特殊な状況だろうと思います。そこから、単純に日本の文化の一般的特徴を導き出すのは、推論の仕方としては、余り好ましくないのかもしれません。だいたい、富野さんや宮崎監督なんて、日本でも奇人中の奇人なわけで、あれを日本人の代表だと思ったら、そりゃもうとんでもない勘違いです。

ケアリーさんが、あることを「これは日本の特徴だ」と思った場合、それは多くの場合、自分の日本に対するイメージを、対象に投射しているだけかもしれないという可能性は、なかなか拭いきれないでしょう。オリエンタリスム含めて。結局、個人の主観の当てにならなさを考えれば、自分の経験は経験としてひとまず保留しておいて、その他の様々な情報と総合して、バランス良く判断を下していく必要があるのでしょう。文化やメンタリティーのようなものは、本当にきちんと把握するのが難しいですからね。しかし、他文化理解という奴は、その厄介さを認識し、早急な判断を禁欲することでしか、なかなか上手いこといかないような気もします。でも、そんなことは非常に面倒なので、学者以外は、やりそうにないですね。

『発動編』は是非ご覧下さい。どれほど期待を膨らませて見ても、多分それを上回ってくれるぐらい衝撃的な作品なので、帰国時、お見逃しないように。

猫屋

『、、、日本人が国際社会できちんと振る舞えない原因はどこにあるのだろうか。それは外国に出たときは一人ひとりが「市民外交官」として「国」を意識して振る舞う必要があるのに、肝心な国家に関わる意識をあまりにも持っていない特性と無縁ではない。』
これはたまたま今日読んだ、山内昌之教授の文章の一部です。どうもピンとこないし、だいたい自分を「市民外交官」などと思ったことはない。たぶん国家と言うものの規定の仕方が、この先生と私とでは違っているように思うのです。

あるひとつの国やあるいは一人の人間を、いくつかの形容詞や表現で表わしきることは出来ないだろうし、同時にその国や人を前にして他者がどう判断しどう理解するかをその国や人は妨げることはできない、というのもありますね。ましてや国にしても人にしても動き、生きているのだから変容し続けるわけで決定論で「こうだ」とは決められない。

猫屋は学者ではなく、単なる一人の生活人ですし、母国を離れてもう20年以上たっています。そして今生活しているのは多文化の共和国なわけで、さあ、私の「日本」はなんだろう、と考えこむことがある。そうやって考えてみると今の日本の文化だって、私にとっては単なるひとつの「他文化」であるかもしれない。

ただこれは毎日の生活で感じることですが、育ってきた生活環境や使う言語が違っていても(当然国籍なども違っていても)、いい人間はいい人間だし、ゲスな人間もどこにでもいる。comprehension や compassion は遠くにあるはずの人とも共有しうる。

だんだん何を書いてるんやら、自分でもわからなくなりましたが、学術的ではまったくない自分が、それでも「日本語」というモーターで動いており、そしてその「日本語」に対する愛情のようなものに突き動かされ続けるだろう。それは愛国心でもないようだし、国家への忠義なんかじゃあない、それは単なる一人の人間の問題だと思うわけです。まあ、端的に言えば個人主義になるか。

全然、違った話になりました。単なる独語です。『発動編』はぜひ観てみるつもりです。

saisenreiha

山内さんの話は、多分、特に根拠とする調査結果があるわけでもなく、推測で話しているのではないかと思いました。自分を国の代表、市民外交官だと思って、それにふさわしい態度を取る人などは、日本人だけでなく、他の国の人でも極めて珍しいのではないでしょうか。また、そのことがある国民の国家意識と、どのような関係にあるかについて、山内さんが推測しているような相関関係があるかどうかについても、かなり怪しいのではないかという印象を受けました。

私は国家の定義を良く知らないので憶測で書きますが、国というのは、定義すれば国際法上の存在ということになるでしょうし、その実質は、原理的に言えば、社会契約に基づいた法共同体と言うことになるのではないかと思います。しかし、そのような法共同体という性格は、国民国家内にある様々な文化的な共同体と往々にして齟齬を起こしがちなので、原則通りにはことが運ばれないのだろうと思います。

国家は、個人としては、共同体として見るか、それとも機能的存在として見るかで、ずいぶん態度の取り方も変わっていくのだろうと思います。もし、近代的個人として国を見るならば、当然機能的に見るのでしょうけど、人間なかなかそうドライにはなれないものかもしれませんね。

猫屋

国家ってなんだ、あるいは国家ってなんだったんだろうというのは難しいです。実際、もう母国には帰らないだろう、あるいは帰れないだろうという人間にとってはこれはとても重いわけです。

なお山内教授の文章はここで読めます。『現代文明』への視点──イラク戦争が示唆するもの
http://www.kepco.co.jp/insight/content/column/column033.html

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