10月2日はわれら猫族のオヤビン;スティング(Sting)の誕生日である。
56歳だ。週末土曜にスタッド・ド・フランスで2時間近く続いたポリス・レユニオン・コンサートでのスティングのパフォーマンスには、ま、歌った曲が今から何十年も前のものだったという事実は別としても、8万人近い聴衆をエクスターズまで引っ張っていく力があった。
少なくとも、アリーナ立ち席では、リアルタイムでポリスを聴いていたわけのない、ティーンの数も多かった(15パーぐらいか)。前座を務めたスティングの息子のバンドFiction Planeは、テクニック的にも悪くなかったし、息子Joe Sumnerの声の質が、まさに父親と同じなのに、いまいち説得力に欠けていた。
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さて。この9月30日に57歳の誕生日を迎えた内田教授のブログに、老いの手柄 とタイトルされた文章があり、“年取っても人間の中身は変わらないんだよ” という教授の指摘には賛同せざるをえない。
だが。あのスティングと、これは単に照れであるのかも知れぬが、自己を“老人”と形容する内田教授との年齢差が一年と2日という事実には、驚かされるわけだ。が、なぜ私が驚いたのかは、私自身にもよく分からない。内田教授とスティングを隔てるものが何であるのか。。。これは案外面白い質問設定と思う。
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たとえばそれぞれの社会における“老い”あるいは“若さ”という概念の違い、とも考えられるだろうし、さらに加えれば、日本における前衛消費文化においては、“若年層”をターゲットにし、あるいは“若さ”というものを、必要以上に重視しているのだと言ってみることもできるだろう。
すると、この“若さ”を謳歌する流れの中で、逆に「老人力」なり、50歳半ばで自己を老人と形容して見せたりする“スタイル”が、かえって新鮮なのかもしれない。
美容整形外科はもちろん、歯のインプラント、老眼の外科手術による矯正、多種プロテーズのうめ込みをはじめ、(もちろん代価を支払える人々にとっての)最
新医療テクニックは、すさまじい勢いで進んでいる。そしてテクニックの多くが、健康保険でカヴァーできないものであっても、その“民主化”度の進みようにも目
覚しいものがある。
そのメルカート化された“若さ”の氾濫に対抗する、アダルト・エイジの抵抗運動なんだろうか。
(たとえば、コンサート会場で、まわりの人々と話していて、一人の女性が「スティングは一日2時間ヨガやってるらしい」と言っていた。たしかに、スティングほどの大物となれば、それなりの資本(金・時間)を使って「がわ対策」ができる。この説明は、簡単であるし納得しやすいだろう。けれど、必ずしも大型ロック・スターが同様に「がわ対策」に成功しているとも思えない。例:やしの木から落ちたキース・リチャード。)
あるいは、“がわ”と“中身”という、精神vs肉体というきわめて古風な18世紀ヨーロッパ型二元論的思考は、たとえば武術の“心構え”とは矛盾しはしないかと、もうひとつの疑問を提出することもできるだろう。
それに50歳台にして“老人”であるとしたら、私たちは数多い、そしてこれからさらに増えていく80歳以上、さらには100歳以上の人々を、なんと呼んだらいいのだろうか?
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巨大スクリーンに映し出された、「ヨーホー、ヨホー、イエーイエ !」のサバンナ雄たけびや「ローーークサン!」の歌い返しを聴衆と交わすスティングの眼は、澄んだ青で、まさに16歳の喜びを表していた。会場の10歳から65歳までの“16歳”も、その喜びを分かち合ったことは言うまでもない。
兎にも角にも、
Hi yo hi yeah ho yeah ho hi yeah ho hi yeah ho ;-)
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なお、コンサート最後、演奏に参加したギタリストは、やはり Henry Padovani だった。→ リベ関連記事 Au Stade de France, le vétéran Padovani a rempilé avec Police
後記:日にちを間違えておりまして、翌日の加筆時に訂正いたしました。やはり、年でしょうかねえ。