ギリシャ財政問題に発するユーロ攻撃とそれに対応する政府や国際機構の反応を追っていて、経済系某ブログのコメント欄で見つけたデイリー・モーションの音です。タイトルはヨーロッパ。演奏はノワール・デジールで歌っているのはあの(昔のピュアさないけどの)ブリジッド・フォンテーヌとベルナール・コンタ。歌詞はここで原文が読めます。なおこの曲は2003年に出たNOIR DESIR のアルバムに入ってたとか。これ、知らなかった。
ニューヨーク・アート・アンサンブルの音をロックしてるね、この曲。たとえば、この頃アタクシ的に再評価してる(以前はまったく嫌いだった)今は亡き画家のフランシス・ベーコンもそうなんだけれど、アーティストというのは時代精神を先取りしてモノを作ってるんだと、つくづく思います。
Too big to fall で Business as usual な“オーソドックス派”にはそんなことできない。
投稿情報: 2010-02-27 カテゴリー: Europe, Musique | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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すごいエネルギーの日本ジャズ:この事実に気がついたのは10年ぐらい前です。日本のエディット・ピアフかも。
投稿情報: 2009-11-23 カテゴリー: Musique | 個別ページ | コメント (3) | トラックバック (0)
バッハ・パルティータとヴァレリ・ソコロフ君とのベートーヴェン・ヴァイオリンソナタ(ピアノばっかりにライトあたりすぎ?):両方とも短いです。
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しかし、ユートゥーでベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ探してて、なんで右枠の同様ヴィデオの一番上にカルラのブリニがウップされるわけえ:夏休みぐらいほっといてくれ、ワケワカラン。リヴ・ミ・アローン!
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負けないために、もうイッチョ。
おなじく仏音楽界の不思議な星(狼のお友達)エレンヌ・グリモーとドイツのトマス・ クヴァストホフのシューマン。シューマンは苦手なんだけど、これは凄い。
投稿情報: 2009-07-30 カテゴリー: Musique | 個別ページ | コメント (2) | トラックバック (0)
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もっとでかいアンプが欲しくなったですよ:トホホ、杜甫。
投稿情報: 2009-07-24 カテゴリー: Musique | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
一本、10日ほど前に始めた記事翻訳があるんですけれど、まだ終わってない。
というのも、ジジェク訳を途中で始めちゃったのと、突然マイケル・ジャクソンの急死報が入り3日ほどマイケル漬けになってたのと、それからとんでもなく暑くなって、現在の猫屋はスリラー風ゾンピー状態なわけ。暑いよお、日本みたいだ。枝豆と冷奴と、とうもろこしとそうめんと駅前の焼き鳥と、エビス・ビールはないのでした:クーラーも、抹茶かき氷小豆白玉つきもないのだ。
マイケル・ジャクソンの6月23日のリハーサル画像がCNNにありました。Fade out , 貼ってみます。
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後日追加:画像はよくないんですが、上のリハーサルで使われてた曲、They don't care about us のクリップであります。ショート・ヴァージョンのブラジル版もですが、撮ったのはスパイク・リーだそうだ。
投稿情報: 2009-07-03 カテゴリー: Musique | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
いまだにバッハ(小川さん)におぼれているのですが、軽くなんか書きたくなった。あたしゃピアノは弾けんからね、キーボードを叩くのである;ジャジャーン。
まあ、音楽に詳しい方々は読まんといてつかあさい。
K夫人は今、東京に向かう飛行機の中である。つまり、アタクシの将来のピアノと唱歌の先生は、アタクシの書いてることが読めないのである;しめしめ。魔法使いの弟子をやってしまおう。
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もうどのぐらいになるのだろうか、K(未来のお師匠)先生との付き合い。10年ぐらいかなあ、たぶん。思い出せない。で、その長い期間、いろんなこと;正しいコロッケの作り方とか、うまいすし屋の住所とか、困った時のサポートと銘菓ひよことか煎餅とかエイミー・ワインハウスをどうしたら救えるだろうか、とかなんとかをエクスチェンジしてたんだけど(考えてみたらアタクシがもらったほうが多いなあ;こっちからのオファーは当のブログぐらいなもんだがね)、今回のバッハと(風の又三郎)ダヴィッド旋風で初めてマジなクラシック音楽話になった。
そしたら、以外や以外、好みが似てるんだ:フーム。でも彼女とアタクシとは、ひと世代とは行かないまでもかなり年齢差があって、一回り(干支のこと)ぐらいは違うはずなんだ。が。つまり、
という、ことであった。ふふ。
で、因果律なんでしょう。まあ、因果律とはそういうもんなのだが、なんで(?)と思い起こすと、たとえばこのブログを読んでくれてる甲斐性ある方々のうち何人かとリアルにお会いしたんだけど、みんなどっかで音楽につながっている。不思議なんだ。
ギタリストが一人(ロンドン)、オペラのソプラノとピアノ(パリ、出身浅草)、目を病んでも、とにかく元気なお嬢さん(ソプラノ、東京・杉並)、ピアノとギターとたぶんヴィオラ・デ・ガンバとダンスと猫の、信じる人(パリ)、音楽史教授(ドイツ・ロマン派専門、東京郊外)、哲学者(下手なギタリストだが、姉妹二人がたしかプロ・ヴァイオリニスト、、、カオス氏、元気?)。
ブログから離れた現実世界でも同様だ:昔、東京で出会って短い間恋人だった人も、ベルリンから来てた哲学の先生で、でも本当はトランペット奏者になりたいヒトだった。たとえばね。。。
半年ぐらい前、偶然に街中で会ったマダムが(モーリス・ラベルの孫弟子)コンセルヴァトワールのピアノ教授で、とにかくこちらからいろんな質問をして気がついたら2時間半話し込んでたってこともあった。
なんでかなあ。でも、考えてみると面白いよね。フランスは決して(ドイツやイタリアのような)音楽大国じゃないのにさ。。。
で、根っこは同じなんだと思う:(暇じゃなきゃ音楽なんてできないよ、と言うのはなし。これは違う:モータウン聞くべし。あるいはロシア民謡エイ・コーラ)。
音・言葉・歌・舞踏なんだ。
もし、アタクシにも根っこがあるとしたら、ここだ: 音=ことば、ジョイネス、テンポ ! テンポ !
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先週9日の放映、Ce soir ou jamais は俳優ドパルデューがゲストで、監督クロード・シャブロルとともに招かれていた。ここで、ドパルデューは「言葉・音楽」について語っている。この番組今でも見られるのでURL貼っていきます。Frédéric Taddei reçoit Gérard Depardieu er Claude Chabrol
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未来のお師匠への個人的メッセージ:ダヴィッド君の今回の録音、音のインスピレーションはグールド最初(1955)のゴールドベルグ版(早いほう)だと思う。色がおんなじ。
投稿情報: 2009-02-16 カテゴリー: Musique | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
バッハを聴きはじめたのは19歳の時だった。年上の友人が、このレコードは面白いんだよ、と東京のデパートのレコード売り場をたまたま通りかかった時言ったのだった。
あの頃は(1974年だ、)ジャズを聴きまくっていて、コルトレーンの晩年とかエリック・ドルフィーとかオーネット・コールマンの、そしてフュージョンに引き寄せられていくマイルスに、私の若い耳はある意味疲れていたんだと思う。
あの時グレン・グールドに出会わなければ、クラシック音楽を聴かずに一生を過ごしてたかもしれない。古典は、チャイコフスキーとムソルグスキーぐらいでおしまいになっちゃってたかもしれない。
その最初のグールドは《インヴェンションとシンフォニア》である。そしてそれがバッハとの最初の出会いだった。
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この一週間ほど、いや10日かな、まずはカール・リヒターの《マタイ受難曲》に何十年かぶりにはまって、あげく、どうやったらこの世界から出られるんだろうと心配になったぐらいだ。
前にも書いたけど、私はちゃんとした音楽教育を受けていない(てか、閉所恐怖症からくるんだろうが、とにかく座ってなきゃいけない学校というのが嫌いで、何かをちゃんと習ったことがないんだ)。ただ、音楽好きだった母親のおかげかな、耳はいいみたい。
それで音符は読めないし、下手なギターと下手なブルース・ロックを歌う以外は、大体音楽というものがどうやって作られていくのか、たとえばどういう風に一人の作曲家の作品を理解するのか、読み込むのか、自分のテクをどうやってそこまで引き上げるのか、そのプロセスを知りえない。アタクシは出来上がった作品の単なる消費者でしかない(K夫人がいつか大きいアパート買って、グランドピアノを入れたら教えてもらおう、、)。
しかし、「マタイ」を再び、今度はCD版をCPで繰り返し聴いて、同じモチーフの部分を比べてみたりして、いまさらながら驚いたし、同時に大昔に私が理解した事項はやはり“正し”かったんだと納得した。
パラレルに偶然ダヴィッド・フレイ君の練習と録音風景ヴィデオをネットで見て(結局DVD版買っちゃいましたが)、そのわかった事柄に対応する名前を、つまり言葉を見つけることができた。ついでだが、あの時代にどうしてグールドがグールドだったのかも、バッハを聴く合間に電話でしたK夫人との会話で理解できたことも大きかった。
もちろん、ドストエフスキーの小説から、あるいはカフカの小説から、何を読み取るのかは個々読者の自由(あるいは感性)にゆだねられていて、極端にいえば1000人の読み手がいれば1000の読み方が可能なんだ。だからもちろん、私のバッハも私のグールドも私の勝手な読みである。
けれど、時代や距離を越えて、この音楽を聴き、愛している人々がどこかにいるということは単に喜ばしい。美しいものは、あまりにも豊かで、枯渇することがない。アートは世界を救うかも、あるいは少なくとも疲れきったヒトを救い上げる力はある。
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さて、今回わかったのはバッハの音楽自体が祈りであり、希望であり、光であり、喜びであるということ(そして自由)。それと、リヒターの「マタイ」コラールの美しさは、リヒターのバッハ読みインテリジェンスはもちろんだが、フィッシャー-ディスカウの声の表現力、人間性、深さに負うところも大きいってこと。
そして、この「受難曲」の最後部の“静謐さ”と“喜び”は、やってくるだろう再生を予言してるからなんだろう(たぶん)。そして再生を来たらしめるのはコラール、つまり人々の声なんだ。
それと時間の流れ方。残念ながらドイツ語の時制がどういう構造をしているのかは知らないけれど、時間の可変性ってのがある。文法で言えば、各種の違った時制、関係詞や関係代名詞やなんやを駆使して、思考が時間内を行ったりきたり、追いかけたりする、あれである。関係ないけど、これを日本語でやろうとすると大変:この構造がないんだもん。「フーガの技法」なんて、まるっきりこれだ。
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さて、アタクシを出口のないリヒター「マタイ」ワールドから引き出してくれたのが、デヴィッド・フレイ君である。
ネットで見つけたインタヴューや記事、それからDVDで彼が言っているのは、ジーグとかサラバンドとかの名が示すように、バッハの曲は踊り音楽がベースにあって、でもバッハはそのステップを越えていくってこと。それを、彼は実際の録音準備段階でオーケストラに説明してるんだけど、ここはイタリア人になってねとか、ここはレスタティーボと解釈して歌わないように弾く、とか逆に、もっと歌うように、とかここは大笑いしながら弾いてねとかいうのが彼のバッハ伝達法である。極めて楽しい。日本語でうまく対応する言葉が見つからないんだけど、とてもdansant で、ピュアで、expressif で、jouissif である。
そして、極めて悲痛な、でも美しいパッサージュを聴いて涙する、ってあるでしょう。あんまりにも美しいから泣きそうなる。そして、バッハ音楽の持つ悲痛の先には光があるのだった。
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K夫人が言うように、南仏出の若いピアニスト(27歳)がバッハの国ドイツ(確かミュンヘン訂正:ブレーメン)のオーケストラ・メンバーを相手に自分のバッハ・コンセプトを説得していくというプロセスは、なんとも無謀なんだが、それが次第に音のかたまりとなっていくさまは感動的である。この録音には4日(連日約8時間)かかったそうだ。
あと、これもK夫人に賛成しちゃうんだけど、CDとDVDカヴァーに使ってある写真は、ヴァージン・クラシックの魂胆ミエミエでよろしくない。ダヴィッド君はもっと天然な、いや、ナチュラルな子だよ。
ちなみに、彼は南仏に生まれ4歳からタルブのコンセルバトワールで兄弟とともにピアノを習い始めた。父親は哲学の先生で母親はドイツ語の先生。とにかく、音楽を聴くことに時間を費やして、ピアノを職業にしようと思ったのはかなり後になってからだって。レパートリーは、ドイツの作曲家が中心、それにブーレーズ。楽器は時代とともに変化を続けるけど、ヒトの声は変わらない。その意味で、音楽のベースとしての歌・声を考えてる。フィッシャー・ディスカウから学んだことは大きい、とか言ってた。映画や絵画(イタリアルネッサンス)を愛し、いつか映画も撮りたいんだって。
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まだまだ書きたいことはあるのですが、ここいらで止めときます。
もう世界経済危機とか、戦争とか天候異変とか貧困とか、ニコラス一世の大冒険とかにすっかりアキレハテ、猫屋はTVも新聞もラジオも職探しも一時ストップするというきわめて個人的ストライキに突入、バッハ・ワールドに迷い込んでおったわけですが、フレイ君の光思考に助けられ、なんか出口が見えてきた。それに、バッハは底の知れない、創造とインテリジェンスと歓喜と光の世界なのだ。一週間かそこら誰かが徘徊しまくっても、減るようなもんではない。
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参考
アマゾンjp:インヴェンションとシンフォニア G・グールド
アマゾンfr:ゴールドベルグ・ハイブリッド版 モノラルだった1955年録音グールド・ゴールドベルグをデジタルでステレオにしたという、グールドオタク用ヘンなCD。2バージョンあって、後のは聞き手が引き手の場に座っているという設定。あの鼻歌は聞こえないんだけど、そこは聞き手がその気になって歌える。
アマゾンfr:リヒターの「マタイ受難曲」
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ダヴィッド・フレイ
ブログPianobleu からインタヴュー記事:Concertos de Bach par David Fray
新契約先ヴァージン・クラシックサイトのインタヴュー映像:ページの写真右下のリンクから
こちらはおまけのアネクドット:昨年2008年の、Victoire de la Musique 賞をめぐってあったDavid vs David キャンペーンに関するブログ記事(本当かなあ)。結局Greilsammer・ダヴィッド君が賞取ったようである。
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いろんな時代がありまして、それでも(偶然に導かれてか?)残っていくものがある。その全体時間内のちょっとした短い空間が私たちの個々の人生なんだけど、見逃したらそれこそもったいない発見というのはまだまだあるんだよ:関係性。
投稿情報: 2009-02-14 カテゴリー: Musique | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
ここんとこ、頭がバッハ構造になっていてちょっと困ってるんですが、だいぶ前にTVの夜のニュースで見たダヴィッド君 / David Fray は、 なんか見た目(ヘアスタイルとか、椅子をめちゃ低くしてピアノ弾いたり、弾きながら歌ったりで)グールド大好き少年だねえ、と同居人と笑っていたんだけど、音楽専門K夫人と話してたら彼女が気に入ってもう新譜をダウンロードしたとか言ってたんで、再度ウェブで見つけたヴィデオで聴いてみた。
バッハの音自体の持つ“喜び/歓喜”みたいのがよく出てて好ましいんだよね。これはモーツアルトにとても近いんだけど、バッハの、それでもなんか“枠”はあって、狂気には至らない(のかも)。
ロック・パンク世代ですかなあ。(ピアノ暦半年弱の)同居人は何をトチ狂ったか、隣の部屋で“平均率”練習してますよ(今からじゃ遅いってば)。
まずはヴィデオ、バッハのピアノコンチェルト、録音風景です。
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14日追記:ヴァージンの手が回ったらしくあとのヴィデオが消えちゃった。残ってるのを貼っておきます。
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人間、天真爛漫・元気が何よりですね。てか、英語がもろナマってて笑っちゃったですが。。。そのオーバー・パフォーマンスぶりに反して、指使いの軽さと出てくる音・タッチの繊細さは特筆に価すると思う。
どうも録音風景をアルテが放映して話題になったようですが、残念ながら番組はアタクシ見損なった。モーツアルトをどう料理するのかもちゃんと聴いてみたいね(グールドはモーツアルト嫌いだったみたいだしさ)。
1981年に南仏のタルブに生まれ、今はパリでキャリアーを続けるダヴィッド君ですが、これからの展開に期待します(クラシック音楽界でのブラッド・ピットかも)。
投稿情報: 2009-02-12 カテゴリー: Musique | 個別ページ | コメント (2) | トラックバック (0)
ここから、早い列車に乗れば3時間ぐらいで行ける所の大学病院で、人が一人、生と死の間にあると、その人のパートナーのブログで知ってからこのかた、歩いていたり風呂に入ったり台所で雑用をしてたりすると、突然頭の中で昔聴いてたバッハのマタイ受難曲のコラール/コーラス・パートと弦楽部が響いて、思わず涙してしまう。
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それで今夜はオリジナルCDを棚の奥から引っ張り出して、聴きながらこれを書いている。
この「マタイ受難曲」は、かなり昔の1966年もので、カール・リヒター指揮、ミュンヘン・バッハ・オーケストラ。あのフィッシャー・ディスカウがバリトンを歌っている。この録音は昔LP で買って、そのレコードは実家に置きっぱなしにして今は行方不明だ。
フランスに来てから、もっと後の録音のCDも買ってみたが、リヒターの厳密さ静謐さとは色合いが違って居心地悪く、結局誰かにあげてしまった。それから時間が経って、もう一度同じリヒター版CDを購入した。
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私はカトリック教徒でも、バッハのようにプロテスタント教徒でもないし、小学校の頃近所のプロテスタント教会に半年ぐらい通ってみたぐらいで、棚には飾ってある仏版新約聖書だって自慢じゃないがちゃんと読んだことはない。クラシック音楽を習ったこともない。ドイツ語も理解しない。
だが、このバッハを聴いて理解した事柄は大きかった。
その頃は、母親が、末っ子の妹がまだ小学校だったんだが癌に倒れて、長い闘病生活を送っていた。私は、毎日仕事の前と後に病院により、帰宅後には疲れきった父親と弟と妹の世話をし、真夜中過ぎに自分の部屋でこの「マタイ受難曲」を聴いていたのだった。
「マタイ」の一番重たいメロディー・テーマは、「歩み」である。まあ最初から最後まで重たいのが受難であると言えばそうなんだが。。。
ゴルゴダの丘を登る重い歩みに平行して、コラールが歌い上げるんだが、この何日か勝手に頭の中で聴こえていたのは、このコラールと後ろで鳴る弦楽パートである。
フィッシャー・ディスカウが「マイン・ファーター」とか歌うところあたりは、ひとまず横に置いておく。悲痛なテーマなのに、コラールと弦楽部は昇って行くんだよ。あれって、ギリシャ悲劇の群集みたいなものなのかなあ:人々の声。
解放(délivrance)とか、超越(transcendance)とかなんだろうが、不勉強なものだから受難がなぜパッションで、同時に情熱なんだか今だに分からない。
だが、私にも分かるのは、何かが立ち上がっていくと言うことだ。
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人は、生と死の間で闘っている。生まれたばかりの子供のことを思いながら闘っている。生きろ。
投稿情報: 2009-02-06 カテゴリー: Musique | 個別ページ | コメント (2) | トラックバック (0)