さて、久しぶりのブログです;ポランスキー監督の手になる「毛皮のヴィーナス」について。
これはあのオーストリアの作家 Leopold von Sacher-Masoch、レオポスト・フォン・サッシャー-マゾッホの原作を下地にDavid Ives という演出家がニューヨークで上演した芝居を、これまたポランスキーが映画化したもの。1時間36分
芝居のほうは観てないですから、マエストロがどこをどんな具合に戯曲をポランスキー化したのかはアタクシには分からない。しかし、見事にポランスキーな作品であります。
舞台は、嵐の夕刻のパリ、うらぶれた劇場。そこだけ。俳優は、Emmanuelle Seigner/エマニュエル・セニエと Mathieu Amalric/マティウ・アマルリック。2人だけ。
設定は、劇作家・演出家トマがが自分の戯曲「毛皮のヴィーナス」のために行ったオーディションに(めぼしい役者は見つからなかった)遅れてやってきたヴァンダが、帰りかけようとする作家相手に、無理やり台本読みを始めるが、、、と言う話。
原作をポランスキーは読んでないと、インタヴューで語っていますが、これを信用してはいけない。相手はポランスキーです。
「テス」や「ピアニスト」のような大河物ではまったくなくて、「袋小路」や「le locataire/ 間借り人」のようなイロニー色の強いポランスキー・コメディファンにとってこの映画はポランスキー趣味が凝縮された小さな宝石だ。
一言で言うと“tordu” 「ひねり」精神の映画で、付け加えるとドラマツルギーの教科書のような作品。
品のない無名の女優が、カンバス地のかばんから「蚤の市」で見つけてきたというドレスをまとい、毛皮に見立てたマフラーを肩に掛け、台本を読み始めると一瞬で「女優」になる。
このかばんは曲者で、この後もいろいろなものがそこから出てくる。そしてそれぞれの小物が付け足されるごとに、女優は変貌し、それにつれて演出家も変貌せざるを得ない。
この女優自身のメタモルフォーズと、次第に演出される女優から演出する側に移行していくヴァンダ(ちなみに原作での主人公名もヴァンダ)の政治的メタモルフォーズ。つまり権力の移行であります。
ついでに、マゾッホの従属関係を女の側から読み替えてしまう。
おまけに、戯曲の中のヴァンダと女優のヴァンダが重なり、さらにヴァンダを演じるセニエの亭主が監督のポランスキーで、劇作家トマを演ずるアマルリックは時としてポランスキー自身に見えてしまう。
最初は単なるさえない女優のヴァンダが、台詞を読み、演出のしかたや照明まで変え、マゾッホ原作の分析から、演出家の分析までしてしまう。途中でドイツ訛りで台詞を読み、ここはマレーネ・デートリッヒ風ね、とか言いながら、次第に彼女はマゾッホが地上に送ったミューズとなり、ヴィーナスとなり、最後にはデーエス/女神になる、という次第。
女神といっても菩薩的女神ではなく、悪魔的でさえある力の権化としての女神なのだよ。ガオ
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実生活ではポランスキーの奥さんであるセニエ、47歳だそうですが魅惑的だし貫禄(説得力でもいいけど)のある女優さんだ。アマルリックも好演、でもポランスキーに似すぎです。
80歳になったポランスキー、まだまだ映画を作る意欲まんまんらしい。
というわけで、ポランスキー・ワールド好きにはたまらない映画。冒頭で嵐のパリにかぶって一種"マヌケな"あの音楽が聞こえてくるとワクワクします。
なお、考えてみたら、オーストリア人マゾッホのマゾぶりをコメディにしちゃうのはさすが(原作は日本ですばらしい装丁の全集が出たときに読んでます ^^ )。これは支配者と自発的奴隷の話です(SMではありません)。
むりやり難を入れれば、「ゴーストライター」同様できすぎなところ、破格がないところか。まあこれはしょうがないか。。
後日追記:最後のシーンは息を呑まされる:ゴチックな終焉は歌舞伎やオペラにも似通っている。、シャッポー、マエストロ