いったん初夏のような天候になったのにこのところ雨の多い寒い日が続いています。しょうがないのでしまいこんだティンバーランド・ブーツをまた出した。毎年、復活祭の週末は寒いことが多いんですが、ことしはそれが長い。
まあ、この雨の後に草木はいっぺんに葉を茂らせるだろう。すでに濃いピンクの山桜も散り始めている。
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日本と言う国のことを考えていた。4基の原発が事故を起こしボロボロになって、放出された放射能全体量もわからない。これまで人類が経験したこともない大事であるのに、高放射線地域で人々の生活が“普通”に営まれている。子供たちがそこにいる。
頭がまたしてもクラクラする。
理解しようと思っても、それはアタクシの理解を超えている。狂っているのはアタクシなのか、あるいは、まともじゃないのは高放射線区域に子供を住まわせたままにする日本と言う国のあり様なのか。。。
日本と言う国
なぜこうまでして原発再稼動に固執するんだろう。一番単純な答えは「それで利益を受けている人々が望んでいるから」。
もうちょっと踏み込んで考えてみる:(フクシマ原発事故の及ぼす結果を過小評価したい、あるいはフクシマ事故はすでに収束していると信じたい)人々は、311以前のように原発が稼動しさえすれば、前のような生活を再び続けられると想像しているのだろうか。あるいは、以前と同じ、と言うカタチでしか未来を考えられないのではないか。
そして、現実に国土の何分のいちかが放射能汚染された国で、その事実を無視し個々の生活を、産業・経済を、さらには政治・行政を今まで通りに機能させるためには、「たまたま運の悪かった」福島を日本のゲットー化させ(つまりないものと考え)「想定外」区域とするより他ないのだろう。
汚染地区から人々を避難させる代わりに、汚染地区に人々をconfinement/拘束しているとしか見えないんです(少なくとも国外からは)。
考えてみれば、日本と言う国はこれまで、自らの意思での大きな方向転換をしたことがない。
だからこそ「権力」あるいは「権力構造」のことを、「共同幻想」というかなりあいまいな観念持ってきて、普遍で強固な物として枠づけし、これに対して個が抗うといった固定化モデルが受け入れられたんだと思う。(フーコーのビオ・ポリティックはこの拮抗関係の枠組みを大きく変容させる。これがフーコーの力である)
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日本は、繁華街を夜中の2時に若い女の子が一人で歩いても平気な国だった。
日本を訪れた国外の人々の驚きは、どこに行っても衛生的で、食は豊かで安くておいしく、忘れ物をしてもそれが戻ってくることだった。
東京駅の新幹線はパリのメトロ一号線より本数が多く、オマケに定刻ぴったりに出発する。
駅前や歩道で「お腹がすいた」と書いたボール紙の端くれと疲れた雑種系シェパードと一緒に座り込んでいるホームレスもいない。道端で「タバコ一本くれ」と声をかけてくる中学生もいないし、スーパーで「お昼食べてないんだけど1ユーロちょうだい」とニコヤカに聞いてくる女子高校生もいない。
「世界一安全な国」だった日本が、(程度がどのぐらいかを明言できないにしろ)「危険」で「注意深い観察」が必要な国になってしまった。もちろん、この「危険」は、放射能汚染ばかりではなく、地震、そしてそれに誘発されるだろう新たな原発事故、そして米国のしくむドル安からくる円高も入る。(日本政府発行の国債/借金はGDPの230パーセントであり、貿易収支は赤字に転落、デフレに引きずられ景気回復の兆しは見られない)
日本は変わることを強いられている。今回は、国外の脅威が強いているのではない。変わらないと生き延びられない。
米国の衰退、世界経済の急激な失速そして社会危機、隣国である中国の政権内紛争等々と世界全体が「曲がり角」のカーヴをカツカツに切ろうとしている時、日本はかつてのような安価で多量な「エネルギー」と安価な「労働」に依存するコンビニ・ウォッシュレット・オール電化・100円ショップ文化から脱出する必要があると思う。輸出重視でいくら付加価値の高い製品を再び開発しても、もう買える人間の絶対数が劇的に減っちゃったんだから。
TVを消して、たとえば経済バブル以降に「得たもの」と「失ったもの」について思いをめぐらすのはいいかもしれない。「壊れてしまったもの」を取り戻す試みは有効かもしれない。火山と地震でできたような狭い国、日本にどうしてあんなたくさん(たしか54)の原子力発電基が建っちゃったのか考えてみるのも無意味じゃないだろう。
コンビニも100円ショップも自動車も電子レンジもTVもウォッシュレットもスマートフォンもタブレットも無くたって(あるいは無い方が)のんびり生きられるよ。←以上の例は猫屋亭;さすがにTVはあるがつけるのは週に1回ぐらいです。(後日追加:思えばうちにはクーラーも扇風機もない)
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2ヶ月ぐらい前か、マドレーヌ寺院のあたりから高級ブティック街まで歩いていた時、若い日本の男の子(大学生だろな)とすれ違った。口あけたまんまでよろよろ歩いてた。
あーあ、自宅でTV見てるとかゲームに熱中してる時は口あけたままでもかまわんよ、もちろん。でも、世界中から集まった海千山千が彷徨する街で、これはいけません。だいたい、パリの大通りを歩くのに口ぽかんと開けた緊張感ない男にいったい誰が惚れようか(両親が大金持ちだったら別だろうが)。。。これ、自己意識の話です(自己愛としての自意識じゃない)。
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今の日本政治のふがいなさは簡単に説明できる。少なくとも第2次世界大戦後からある時期まで、日本には政治も外交も必要なかったんだよ:単なる傀儡政権でよかったんだ。
だが、ワシントンの影響力が弱まり、同時にネオリベラル・グリーンスパン(ハイエク・フリードマン)型金融牽引多国籍国家・企業乗り入れIT依存高度競争株価重視メガ・プロジェクト連立路線の破綻が始まり、あげくにフクシマが爆発したんだ。
同時に、政治の無力(+無能なアナクロ独裁型政治家の活躍)も世界的傾向ではある。
だからこそ(どこの大手メディアも報道しないが)世界各地で様々な反政府・不服従運動が繰り広げられているわけ。組織もなく、リーダーもいない、教条もなく、共通な目的も見えてはいない。
ま、走りながら考えればいいさ。我らには生き延びる「権利」があるんだ:違いますか?