なにしろ日本語を話す機会も多くはないし、日本語の本も雑誌も読まないし、アタクシのこの頃の日本語力はかなりおぼつかない。特に、起きた直後がいけない。たぶん、寝てる間も頭脳は否日本語化してるんだろう。
(関係ないが、いつかこのブログ記事を英文・仏文にグーグル翻訳して遊んでみたことがある。案外読める仏・英文になった。アタクシの文章構造=思考構造は何時の間にやら欧米化していたのだろうか。)
だが、ネットで個人ブログや経済新聞系の文で読むこの頃の日本語が、なんか、日本語になっておらず、気にかかる。
(単に、アタクシの日本語が母国を出た27年前の時点に凍結したままだが、日本語さんの方が進化というか変化したということもありえるか。。。)
時には、文が全然意味をなしてない(翻訳文に多い)、あるいは長い間ブログを書いてる人なのにテニオハがいい加減だったりする。外国に長い人の文で、定型形の表現が定型からずれていたりする(これはアタクシも時々やるな)。
翻訳・通訳でも、通訳は“話”なので意が通じればヨシと言えるが、翻訳は書き文字が残るので、仕事に、より時間がかかったりする。だから、仮定として考えられるのは、みなさんSMSやツイッターとかFacebook 書きのスピードに慣れ、同時に世界的に時間が加速し(昨今のラジオ・TVの話し言葉の早いこと!)、結果、ゆっくり推考しながら書き、さらに文章に手を入れる暇がある酔狂人が、少なくなったと言うことかもしれない。
狭い地球、そんなに急いでどこへ行く?
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追記
この頃のフランス語でも変なのがある。たとえばラジオの政府系CMで“血液は貴重なproduit/プロダクトです。献血しましょう”と言ってる。これは政治的(ことによったら意図的)間違いだろう。
血液は、生産物ではない。それは人間個人の一部だ。だが、(映画マトリクスでのように)人が単なるリソースとして想定される限りで、血液も臓器も、プロダクトとなる。そしてもちろん時間も、そして自由も。
ハイエクは、空気まで民営化すべきだと考えていた。
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