短いほうの記事から訳してますが、痛いのでかなりな意訳です。関連写真に関するリンクは、当ブログ前記事を参照ください。
ヒロシマ:世界が今まで見なかったもの
ル・モンド 2008年5月9日 ニュー・ヨークと東京通信員それらは地上で起きた惨禍の内側から撮られた写真である。抽象的で現実から切り離された核キノコが現すヴィジョンとはなんら関係がない。これら画像は、1945年8月6日の午前8時17分に、ヒロシマという日本の都市が、アメリカ軍機による最初の核爆弾投下を受けた後の何日かを映し出している。 こちらを唖然とさせる水に浮かぶ身体の写真。怖ろしい、苦悩にゆがむ顔を写した写真。ピラミッド型に積み重ねられた硬直死体写真に写る、瞬間に膨張した成人、老人、そして子供たち。男性・女性の区別は無くなっている。瓦礫に埋もれた、あるいは見渡す限りの列に並べられた、多くのただ単なる焼死体。現地に最初にやってきた日本軍と救援部隊員はマスクをつけ、列の間をさまよっている。子供たちのみが大きさから子供だと判断できる。
カリフォルニアにあるスタンフォード大学のフーヴァー・インスティテュートは、5月3日月曜に10枚の例外的写真を公表した。それらの写真は、第二次世界大戦後にアメリカ日本占領軍所属の一兵卒だったロバート・L・キャップが、1998年寄贈したものだ。「広島市近郊の地下室を捜索していた時、キャップは偶然に未現像フィルムを発見した:それらの中にこの写真があった」と、マーセッドにあるカリフォルニア大学の歴史学者、ショーン・マロイ(Sean Malloy)は語る。日本人撮影者が誰かはわかっていない。
今年出版された著書、アトミック・トラジェディ:ヘンリー・シンプソンと対日本核兵器投下決定、コーネル大学出版(Atomic Tragedy: Henry L. Stimson and the Decision to Use the Bomb Against Japan)を準備中に、マロイ氏は出身校のスタンフォードでこれら写真を見る許可をえた。その後すぐさまキャップの家族に会い、未公開写真3枚の著書への掲載許可をとる。すでに亡くなっていたロバート・キャップは、それに先立つ1998年、2008年までは公にしないという条件をつけてフーヴァー・インスティチュートのアーカイヴに、それら写真を寄贈したのだった。
1945年8月6日、人口35万人の広島市は、蒸し暑く圧倒的で、蝉の鳴き声が耳をつんざく、あの日本の夏の日を迎えようとしていた。未明に太平洋テニアン島を離陸した、空飛ぶ要塞エノラ・ゲイによって投下された爆弾は、高度580メートルで起爆した。市の90%が破壊され、15万の人々が即死、あるいは長い苦痛の後死亡した。続く驚愕的効果は、放射線被爆による長い死だった。被爆した詩人、トウゲ・サンキチ(訳者注;峠三吉、わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ)は「私たちの人間を返してくれ」と投げかける。9月に『ノー・モア・ヒロシマ』を出版したオーストラリア人ジャーナリスト、ウィリアム・バーチェットのルポルタージュを除いて、半年が経った時点で、広島と長崎で起きたことのほとんど何も知らされていなかった。それが人道的悲劇をもたらした:すさまじい負傷をどうやって治療すべきなのか、通常の火傷と同様に扱うべきなのか? 生きながら引き裂かれた身体の出血をどうやったら止められるのか? 占領軍によって配置された機関は、核爆弾のもたらす結果を研究するセンターのみだった:いかなる治療も行われずに、しかし遺体解剖を要求していた。
これら写真が示すすさまじさは、今一度あの疑問を投げかける:あの原爆は、太平洋での戦争を終わらせる唯一の手段だったのだろうか? 1945年、日本は限界状況にあった。7月26日のポツダムで、米合衆国は日本に無条件降伏を要求したが、日本側はこれを拒否している。だが日本列島への核爆弾投下決断は、すでに前日ワシントンで取られていた。将軍から、のち大統領になったドワイト・アイゼンハワーは回想録の1945年8月にこう記している:「日本はすでに打ち砕かれた、爆弾は不必要だ。」 しかし、第二の爆弾は長崎に投下され、7万人が即死した。 日本降伏より以上に、その間に日本に対して宣戦布告したソヴィエト連邦に対して米国の優位を示すためだった。
写真公開後、米国のブロガーとネット人口の間で、この主題は大きな論争となっている。コメントで繰り返される言葉は:「ジャップにとって当然の報いだ。」 MetaFilter サイトでの “ポストカード”とサインされたコメントに、「(写真のように)どんなに悲惨であっても、クリント・イーストウッドの映画(硫黄島からの手紙)最後と同じように、彼らには降伏する意思はなかったのだから、この爆撃はアメリカ人、そして日本人の多くの命を救った。」 もう一方では、以下の言葉が繰り返される:「アメリカは恥ずべき犯罪を隠している。」
多くのネット・サーファーは、なぜ今これらの写真が公開されたのかと疑問視している。発表された公式理由を信じる人は少ない。キャップ氏が誰かに写真を見せるまで53年も待った、というのは信じうるのか? そのうえ、なぜさらに10年の未公開期限をつけたのだろうか? マロイ氏には説明できない:「これは仮定だけれど、キャップはその余生がもう長くないと知っていた。写真が呼び起こす議論に巻き込まれたくなかったのだろう。」
そしてまた、なぜキャップ氏は写真をフーヴァー・インスティチュートに持ち込んだのだろうか? このセンターは過激なネオコンによる研究の中心として知られている。イスラエル攻撃用A爆弾をイランが製作する以前に、イランへの米国介入を“プッシュ”するのが目的だと見る人々がいる。反対に、ヒラリー・クリントンに対して「何か言う前にこの写真を見るべきだ」と言う人々もいる。民主党公認選挙女性候補者(訳注;クリントン)は先ごろ、ユダヤ国家を攻撃したなら「イランは世界地図から消えて無くなるだろう」 と威嚇している。"oneirodynia"と名乗るネット人は「核爆弾投下後の、米国と東京政府両者による大幅な検閲」を重視する。1946年夏、日本における米検閲は拡大し、6000人までを雇用していた。
米国の“秘密のカルチャー”を発見したと信じる多くのコメンテイターは、ヒロシマと、対ベトナム戦争時に現地住民を対象に米国がおこなったナパームじゅうたん爆撃、、、そしてグアンタナモとアブ・グレイブのあいだにつながりを見出している。ある無名ネット人はヤフー!サイトに、ヒロシマからイラクまで「米国民は、つねに自国の死者にしか興味を示さない」と書き込んでいる。
このように、インターネット上で議論が進む間、いまだ米国プレスはヒロシマ惨事の写真公表について言及していない。そして日本プレスも同様である。
シルヴァン・シペル フィリップ・ポンス
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米国検閲は被害者画像を隠していた
ル・モンド 2008年5月9日数百のもつれた身体が死の収容所を想起させる、これら広島の新しい画像には前例がない。それは、あの人間破壊の規模を物語っているが、これまで知られていたイメージの多くは、核キノコ雲であり、破壊された街であり、あるいは個別に写された死者や負傷者だった。当初米軍が選別しプレスに公表した画像はターゲットを記した地図であり、のちに核イメージのシンボルとなったキノコ雲だった。エノラ・ゲイ機上で機関銃手だったジョージ・カロンの撮った広島市の写真。しかし人々は、より“美的な(esthétique)”ナガサキの映像を記憶に留めた。
地上で撮られた写真は極めて少ない。なぜなら米国検閲がすばやく日本で発動されたからだ。生存者にしろ死者にしろ、被害者を見せてはいけない。外国から送られた特派員は、米ジェネラルオフィス(GHQ)の許可を受けなければならなかった。このように、何年もの間、米国と日本の人々は粉々に破壊された建物の写真しか目にしなかった。
広島被爆の日、たった一人の人間が写真を撮っていた:地元紙の記者マツシタ・ヨシトだ。彼の5枚の写真が知られている:遺骸ではなく、負傷者が油を塗って傷を癒している。被爆翌日の長崎では、日本軍従軍カメラマンのヤマダ・ヨースケが、100枚ほどの個別な被害者の写真を撮っている。子供の焼死写真、傷ついた赤ん坊に授乳する女性、物につかれたような避難民たち。。。これらの写真はすぐ日本プレスに掲載されたが、西欧では発表されていない:日本に上陸した米軍はすぐさま印刷物を回収した。ヤマダ・ヨースケは48歳になって癌で死亡している。
日本に独立を帰すサンフランシスコ条約が締結される1951年まで、画像であれ文章であれ、日本の報道は市民に対して行われた爆撃には言及できなかった。 米国では、マツモトとマツヒゲの名が記された初めての被害者写真が、1952年9月29日、ライフ・マガジンに掲載された。しかし現地で米軍によって撮られた写真と映画が公開されたのは1970年から1980年になってからだ。
画像の少なさから、多くの写真家がふたつの町に出向いた。トマツ・ショーメイは1960年代初頭、焼けて木の幹のようになった皮膚の写真を公表した。ツチダ・ヒロミは、爆弾が投下された時間を表す時計など、広島記念館に収められた物品に関する作品を残している。
日本における写真の専門家ガブリエル・ボーレ(Gabriel Bauret)は、今でも公開されていない写真があるだろうとみなしている。「写真の絶対数が少なすぎる。だが広島はアメリカにとっての科学実験場だった。被爆の現状を研究するため多くの写真が撮影されたはずだ。」 被爆者(フランス語で;hibakusya)の写真を撮るカメラマンのギヨーム・エルボー(Guillaume Herbaut)は、長崎の記念館で“禁じられた”数百の写真を観閲している。「それらの写真には、名の記されたプレートを持つ被爆した被害者が、囚人のように写されていた。」
クレール・ギヨ
---と、翻訳終了:Do not run, but walk. ---
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