同様な事実関係と信仰の識別は西洋思考の基礎である。アリストテレスがすでに、一方に肯定あるいは否定に行き着くための議論対象となりえるような指示的ディスクールを、他方に祈りを分けている。後者(祈り)は議論の対象とはならない。なぜなら祈りは異議を唱えず、嘆願し、誓い、決意し;あるひとつの情報(information)を目指すのではなく、あるひとつの結果(performance)を目指すのであるからだ。
これは3月3日のル・モンド記事での(猫屋拙訳)グリュックスマンの言葉ですが、このところの日本政治をめぐる動きから今朝、ふと(少なくとも)戦後日本では、たとえば『民主主義』 -- あるいは『国際主義=国連至上主義』 -- が政治システムとしてではなく信ずるべきひとつの『信仰』として機能してしまったのではないか、と考えたわけなのであります。
そうだと仮定すると、その信仰が例外的経済発展のあった時期では、前倒しの(あるいは米国に預けた)信仰としての民主主義は、大きな矛盾を起こさずにすんだ。ところが経済がパンクし、親方米国での『民主主義』自体も機能しなくなった段階で、信仰心の大きな亀裂が出てきた。これを埋めようとするのがある意味での先祖帰り、ナショナリズムの復帰なんじゃないか。
昨日は映画 V for Vendetta を観たんですが、上の考察になった。以下は時間があるとき、できればジジェク風に、そしてできれば吉本も絡めながら続けてみる、つもり。(無理か:まあひとまず投稿)
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