あいも変わらずペンギンです。見てて飽きない。映画見に行っちゃいそうな勢いですが、DVDがもう出ている。しかし南極風景は大画面の方が向いてるからして、友人の子供でも借りて一緒に見に行こうかなんて考えているわけで、、、ま、閑話休題。
この本来地味系映画が受けちゃったのは、ペンギンの姿が人間に良く似てるってことが①、けなげなペンギンの“家族愛”が②、なんだと思います。②の派生として、ペンギンのお父さんぶりは見習いたい、といった受け取りも出来るわけです。
たしかに、ぼろぼろになりつつ河を上って産卵するメス鮭は二本足で歩かないし、だんなさん鮭とキスしたりしないから絵にならない。子供がイクラ・スジコでは、親子記念写真も取れないし。
ダークスーツ着こんだペンギン父さんの息子との会話なんて、まったく今時の親子関係では(TVや映画以外では)なかなか見られないよい風景であります。いや、大体この見方がよろしくない。大体、あれはお父さんじゃなくて、お母さんかもしれないでしょが。
それに、ペンギンが生きているのは“家族愛”ではなくて“種の継続”への意志みたいなもんでしょう。
セントラル・パークの動物園には、ロイとシロというペンギン・ホモカップルがいるんだそうです。さすがニューヨーク。ついでに書いとくと、ペンギンの一夫一婦制は続いて一年だそう。つまり子供が独立するまでですね。ははは。
要するに、父性のはなしにペンギンの写真を持ってきたのは、まあ翼があっても飛べない抑圧性(インポテンツのことかも)までは行かないにしろ、偶然ではなくて、“親と子”の関係性のためだったような気もします。“ね”の潜在意識ちゅうーか。
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さて、関連2エントリ自分で読み返して、単語の誤用を見つけたんですね。“父性”がいつの間にか“父権”に入れ替わっている。これって案外微妙です。
吉本隆明は“父性”を背負った。これには“夫”であるという大前提があります。じゃないと“対幻想”が対幻想じゃなくなる。(共同幻想論は68年に刊行)
1945年生まれのニール・ヤングは10歳の時両親が離婚し、母親に育てられています。
フロイトのユダヤ・キリスト的父像には“父性”というよりも“父権”あるいは“父権性”が強いという印象を持ちます。どうしてか。
一神教の“父/神”は創造者であり、同時に子供を抑圧する存在ではないか、と思います。完璧な存在である“父/神”は自己が創造した子供/人間に、自分と同じように完璧な存在になることを期待するのですが、同時に“原罪”なるものも与える。原罪を抱えながら、父/神に近づこうとすること自体がパラドクスであって、子供としてはいったん“父/神”を殺さねばならなくなる、、、といったプロセスがあるように感じられます。
つけたしですが、“父権”が日本でも有効だった時代があります。明治から昭和の敗戦までですね。植民地政策の頃です。(明治以前については社会構造が異なると言うことにして勝手に略)
やがて、医学の発達があり家族あたりの子供の数が減少する。女性の教育程度が高まり、職業進出があり、フェミニズムがあり、同時に父親の育児参加が徐々に一般化する。平行的に離婚が増大し、核家族さえ崩壊し、再編成家族(子連れ離婚組み同士の再結婚)あるいは片親家族が増える。欧州では、まだ数は多くないにしろ、ホモセクシャル・カップルが子供を育てています。
もちろん先進国に関する事象ではありますが、この60年ですごいスピードで変化しているのは経済ばかりではない。
ジョン・レノンが息子ショーンの育児に専念していたころ(70年代後半)、そんな父はまだ例外的だったように思います。
“性”はどこかで“権力”と繋がる。政治になるんですね。力関係。ヒエラルキー。一神教的(中央集権)世界ではミクロの部分でもマクロの反復が見られる。家族内にヒエラルキーが出来上がる。ところが男と女の差が、労働面でも金銭面でも、少なくなってくるとこの構造が壊れる。屋台骨が壊れた家庭は分散しだして止まらない。(これは同時に政治自体の分散とクロス・オーバーしてるようでもある)
話はちゃらんぽらんと、どんどん無政府的に進むわけですが、むりやりまとめて見ると、ヨーロッパ的父権は20世紀後半になってからとんと人気がない。これはユダヤ・キリスト一神教の後退(そして、どこかでフロイト主義の後退)と無縁ではない。
古典的家族が崩壊して、社会の基本であった“家族”が核家族的“カップル”に集約され、そして一夫一妻制が崩れかけている(時間差ポリガミー)欧米では“親子”が“家族”のぎりぎりのベースをなしている態だ。
以前のブログで紹介した Broken Flower は息子探しの話だったし、チャーリーのチョコレート工場にも(フロイト風な歯医者)父親探しのエピソードが出てくる。今パリで封切りの映画のなかでも、アメリカ映画の Keane、ポルトガルの Alice の2本がいなくなってしまった娘を探す父親の話。恋愛よりSEXより(暴力ははっきり言って厭きたし)、子供への愛が勝っているように見える。
(ああ、そうか。かの国の、父権を失った大人になりきれない男共は、ペンギン映画を観てID(インテリジェント・デザイナ)の父を恋うのだよ。大変だな。)
簡単に言えば、集中権力の権化的父親を今頃目指しても、あるいは探してもしょうむない。“性”としての親よりも、“個”としての親を生きることしか選択肢はないんだろうな、と思う。---- もしも、ここまで読んでくださった方がいらしたら、とんでもない話につき合わせてまったく申し訳ない、、、--- 明確な結論もないまま今日の作文はヘタレにフェイド・アウトであります。
おまけ:先日ラジオをかけてたら、オノ・ヨーコの紹介で“ヨーコがいなかったらジョンは、ヘンドリックスやジャニス、ジム・モリソンのように早死にしていたかもしれない”とコメントしてた。そういう見方もできるな、確かに。