これは、ル・モンドウェブ版で行われた歴史家 Pascal Blanchard/ パスカル・ブロンシャール(著作:La fracture coloniale/ 植民地断絶 2005年)と読者の間で行われたチャット簡単訳です。現在(12月末)、フランスの植民地政策をめぐる論争はあきらかに“行きすぎ”の観を呈している。かえって今月アタマまで戻って、確認作業をしてみるのもひとつの理解の仕方かもしれません。
Comment écrire l'histoire de la collonialisation ?
植民地の歴史はどう書けばいいの?
フレッド:ブロンシャールさん、教科書で“海外におけるスランス人の功績”を認知するという2005年2月23日法は、国民の一部を刺激する以外にどんな役に立つのか、特にどういった意味があるのでしょうか?パスカル・ブロンシャール:少なくとも、今になってやっと植民地問題と言う過去がフランスで始めて論争の対象になることを示した点で、意味があるでしょう。確かに、この論争はイデオロギーと政治に関わるものです。けれど、40年間の沈黙の後、フランス社会全体がやっと私達の根本歴史のこのページに目を向けた。あと2月法が示しているのは、国家が - あるいは国議会議員の一部が - この植民歴史の読解に、今、“イデオロギー”を選んだ、と言うことです。
"歴史家のリアルな立場というよりイデオロギー論争"
ローブ:どうしてこの論争がこんなに反響を呼ぶのでしょうか?
P・ブロンシャール:あなたの質問に答える前に、まず歴史家という仕事について説明しなければなりません。歴史家という仕事は、歴史上のひとつの時代や瞬間にプラスやマイナスの会計結果を書き加えることではありません。たとえば、ゴール/ガリア地方でのローマ人の存在や、アフリカ大探検に興味を持つ場合にも、誰もプラス・マイナスのレクチャーを通してやったりしないでしょう。そういったたぐいの歴史理解は、歴史家のリアルな姿勢というより、イデオロギー論争に帰す。極めて複雑、不明瞭でパラドクサルな(ひとつの)歴史に、“プラス” “マイナス”といった概念は、後付の価値判断をもたらす。確かに、学校や病院や道路について語ることはプラスの活動という印象を与える。けれど、誰が道路を建設したか、学校に行っていた子供数の少なさや、医療サーヴィス設備の性格も思い出さねばならないし、また植民フィールド外でもそれらは作られえただろう。これが意味するのは単に、このように(プラス・マイナスで)植民地時代という過去を理解すること自体、歴史家の振る舞いではないと言うことです。
レイ:植民地時代フランスの有益な役割の法に関する論争はバンリュウ問題のすぐあとに起こりました。。。何故だと思われますか?
P・ブロンシャール:議会機能の進み方が良く知られていないために、この質問が出てくるのです。実際にこの議論は2003年から議会でなされていた。いくつかの報告書と委員会とと法案があった。特に2004年にミシェル-アイヨ・マリが政府の名において提出した法案は政府の(方向性)発露だった.....それほどのエレメントがこの考えが長く、古いもので、2005年に『都合よく現れた』わけではないことを示している。それらの論争に継続するものとして2005年の法案は浮かび上がった。そんなわけで、第四条は金曜の夜更けに何人かの疲れきった議員によって可決されたに過ぎないと考えるのは、正当でも正確でもない議会の流れの解釈です。だいたい、これらのエレメント全体 - 国議会サイトに提示されている - を正確さをもって分析すれば、この論争における2年前からの議会内グループ群全体のあいまいさと、異なる選挙に向けた、また思想面での駆け引きが計れます。
ヘイ:立法者が歴史を作るのではない、というド・ヴィルパン首相の発言をどう思いますか?同意できますか?
P・ブロンシャール:はい、彼が言った事に同意します。しかし、首相の言葉と現政府を支持する議会グループの間のズレには驚かされる。けれどこれは今日この歴史を理解することの複雑性も示している。
アルバン:どうしてフランスは植民地歴史を語るのにこれほどの苦痛を感じるのでしょうか?
P・ブロンシャール:これは根本に関わる質問です。確かに日本と並んで、フランスは過去の植民強国としての歴史をもっとも理解しにくい国です。共和国基礎概念と植民活動の間に矛盾があるというのが根本的説明のひとつだと思います。歴史判断の物差とも言える、共和国と植民地の強い近似性は、現在のわれわれにとって逆説的なものと映る。そして、実際にそうなんです。植民地問題を問いただすことはつまり、フランス革命以来ほぼ2世紀に渡る共和国の歴史を問いただすことでもあるわけです。
アタテュス:フランスの2/3(IFOPアンケートによる)が植民地政策の有意義性に関する法に賛成する事実をどう解釈しますか?
P・ブロンシャール:まず(フィガロのアンケートの)設問の性質を問わなければならない。実際、この質問自体が不明瞭なのだ。なぜなら論議はプラス面を語るべきかどうかではないからです。今、植民という過去について、フランス国民に極めて明確な形で問いかけ、教え、語り、理解しなければならない。この問題に対するフランス人のオピニオンを、相対的に言ってあいまいな修正案の一節への単純な回答に縮小すべきではないでしょう。反対にこのアンケートが示しているのは、ある意味歴史家がなすべき大仕事がフランスでは手付かずだということです。植民地とはなんだったのか、その逆説性、あいまいさ、矛盾、そしてすべての現実性の説明です。とにかくこの回答を通して、フランス国民はフランスの過去について自問自答した。この質問が表面化したことがこの40年の間極端に少なかった事実を考えれば驚くにはあたりません。この質問は、(アルジェリア戦争に関する論争をめぐる)メディアでも、テレビのドキュメンタリー特集でも、あるいは美術館・博物館や国家主催展覧会でも、すべてのフランス人にとって、この記憶と歴史の共有化がなされたはずなのです。
アルジェリーノ:これは過去への逆戻りなんでしょうか?私達は1950年代の考えに戻ったのでしょうか?
P・ブロンシャール:(答えは)ウイでもありまたノーでもある。思想論議としてはそうだし、同時に多くの人にとって1980年-1990年代にはほとんど聞いたこともない論議の発見だからです。
ドック:"Indigènes de la République" 『共和国の土着民』マニフェストをどう思われますか?
P・ブロンシャール:署名はしませんでした。これについてはNicolas Bancel/ニコラ・バンセルとともにル・モンド紙上で説明しています。植民歴史:“フランスは明白な遅れに苦しんでいる”
マルレーヌ:逆説的にアルジェリア戦争は歴史家たちに研究されています。マダガスカル、東南アジアなどの(元仏植民地)は対象になっていません。これは今後変化するのでしょうか?
P・ブロンシャール:アルジェリアに関するものに比べ、マダガスカル、ブラック・アフリカ・アンティーユ、ニュー・カレドニアに関する研究はあまり知られていないから、と単純に考えます。けれど、多くの歴史学者が以前からこの点に関してよい仕事をしている。単に、一般人はこれらの研究を知らないし、これらの地理的範囲に関わる人々が長年にわたってアクティヴな政治的出版者からさして支持されなかったのも事実です。けれど私の考えでは、研究の不在という印象は、それら別個の研究を知らないことからくるのでしょう。
キャティア:どうして英国では“ポスト・コロニアル・スタディ”がフランスより発達したのでしょうか?共和国の歴史家の思想ポジションのせいですか?
P・ブロンシャール:この質問に答えるにはみっつの説明を引かなくてはなりません:第一に、過去30年英国では、教育者と研究者を“ポスト・コロニアル・スタディ”枠から募っている事実です。この点でフランスは遅れをとっている。第二点:英国人は早い時点で帝国問題を英国歴史の全体的考察に移し変えている。第三点:アングロサクソンの植民歴史理解の方法は、植民地政策においての共和国の役割について常にあいまいだったフランス歴史家のやり方とは大きく異なっている。この問題は、英国ではこういった語彙で問われることはない。でもそれは、英国ではこの植民地歴史をどう読み込むかという本当の議論がなかったという意味ではありません。反対です。その議論は富裕な、豊かで、また矛盾したものでした。これがたぶん、イギリス帝国の歴史に関する記憶の論争が、英国では存在しない原因なのでしょう。
ナララ:わたしは、コンゴ植民地についてのベルギーの大展覧会で仕事をしました。それらの問題が自由に議論される豊かさに心を打たれましたが、“対する陣営”元被植民者側の事実についての意見がほとんど、あるいはまったく語られなかった。どうやったら私たちは、この違った視点を聞くことができるでしょうか。それは多くの根拠ある怒りと恨みの根源だと、個人的には思うのですが。
P・ブロンシャール:対岸の歴史家達が一緒に仕事をしないと思ってはいけません。そんなことはない。20年ほど前から、アフリカ、ベトナム、マグレブ、ラオス、カンボジアの歴史家、そしてアメリカ合衆国に住むそれらの国からやって来た歴史家達が多くの共同プロジェクトや共同プログラムを扱っている。確かに、Tervuren/ テルヴュレンで行われたばかりのような大展覧会では、“他者の言葉”は多くないといった印象を持つかもしれない。この点ではあなたに同意しますが、ベルギー人には少なくともこの年、ベルギー植民史回顧大展覧会を企画するという功績がある。フランス国家にも同じことを期待したい。
ビュルブ:植民地化した許しを乞う必要はありますか?
P・ブロンシャール:いいえ。なぜなら、今日私達は過去に植民地化した人々の“遺伝的”後継者ではないから。
ファバッス:フランスはいまでも植民者意識を持っていますか?
P・ブロンシャール:いいえ。肯定するのはアナクロニズムの証明でしょう。けれど、意識や実践のなかにはまだ“植民カルチャー”の名残がある。これは明白だと私には思えますし、じゃあなければ三世紀近くにわたる歴史がなんの遺産も残さなかったことになる。
キャティア:背負っている逆説的遺産から考えて、“共和国の価値”は更新すべきでしょうか?
P・ブロンシャール:共和国の価値は、定義から言って、常に更新されるべきだ。時代に沿い、国民の多様性に適応するために、そして単純にその基礎概念上に日々強化されるために。さもなければ共和国は自分から同一性という後退に陥る。『共同体主義共和国』出現を見る以上の最悪事項は考えられません。
すべての人に答えられないのは残念です。いただいた質問に感謝します。よい一日をお送りください。
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チャット管理: Constance Baudry/コンスタンス・ボードリ Prudence Cauvin/プリュードンス・コーヴァン
訳出後記:最初にこのチャット記事をすらっと読んだ時は分からなかったが、訳し出してからしまった、と思った。まあいつものことなんですが、今回は特にチャットというのに気を許した。1時間弱のチャットなんですが内容は濃い。また、チャットでありますから明確ではない部分もあり、誤訳の可能性も大きいのです。結局3日かかりの訳になった。誤訳部を見つけた方はお知らせください。
また、このパスカル・ブロンシャール先生、誰かに似てるなあ。と思ったら作家井上やすしに似てる。楽しそうな人ですね。
追記2(2006/01/30):この記事、チャットにしては例外的に今でもル・モンドウェブ版第一面にリフェラーされています。Pascal Blanchard氏は歴史家、CNRS(国立科学研究センターとでもなるのかな)に所属、専門は植民の“イマジネール”だって。同時にACHAC(近代アフリカ歴史の認識)というアソシエーションにも属するマルセイユで活躍する先生。国家研究機関に属しながら、同時にミリトンティズムをしっかりやっているきわめて仏的知識人なり。
後記3(2006/10/15):語彙、句読点、間違いなど数箇所書き直しました。
おお!またもや面白そうな記事を訳していただけるようで、楽しみにしてます。
投稿情報: saisenreiha | 2005-12-30 01:17
やっと訳し終わりました。途中時々覗いてくれた方々には申し訳ないです、遅くて。なんだか訳出リアリティショーみたいになっちゃった。途中で(今ワインを取りに行った、スーパーに買い物、現在宴会中)とかコメント入れればよかったかな。でも翻訳は時々した方がいいんですよ。じゃないと脳味噌内横文字部分とたて文字部分が分裂します。ニューロンは時々繋がらせないといけません。
投稿情報: 猫屋 | 2005-12-31 04:50