すっかり秋になってしまいました。一ヶ月前は日本で35度前後の近畿や東京をハフハフしながらほっつき歩いていたのが嘘のようです。このところ、朝晩はかなり冷え込む。
あれ、なんか変だなと思ったらアパートに集中暖房が入っている。風呂場以外は全部ラジエターの調節バルブ閉めてあるのに、上下左右の隣人宅が暖まってるせいだろう、喉ばかり渇く。今はまだ高い秋空に時々陽が差すわけで気分はいい。この短い秋のあとには長くて暗い冬が待っているわけです。
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さて、三題話の続きと言うか。今回はヨーロッパ、ユダヤ・キリスト教の“父性”とフロイト、そして母なるもの。とは言っても、私のユダヤ教キリスト教に関する知識も、精神分析に関する知識なんてさらに、ほとんど皆無に近いわけで、何をか況やもいいところなんだけどただこれらの事象をクリアしないと欧州のコアには近寄れない。こっちの人や場所や言論を通して私に垣間見える部分についてだけでも書いてみます。
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20年近く暮らしたパリは信心深い人間は少ないにしろ、一応カトリック圏とみなしていいと思う。こちらに来て10年ぐらい経ってからか、ある日教会に入ってぼーっと中の様子を見ていて(信心はまったくないのに教会や寺が好きなんです)、ふっと『しかし、生きてんだか死んでんだか良くわからないが、少なくとも agonie/断末魔の苦悶を信仰対象にしちゃうってのはかなりだな。』と思ったわけです。
それまで、十字架にかかったキリストをそんな風に見たことはなかった。当たり前と言えば当たり前だけれど、父と子と精霊と、の象徴であるキリストさんの遺骸、あるいはお亡くなりになる直前の大いなる苦痛を拝むというのはやっぱりかなり、かなりである。
仏教でも、涅槃像はあるにしろ、法隆寺の塔内にある像を見てもかなり“リラックス”してるように見えるわけで、(もちろん信者の方々には申し訳ないが)キリストさんのあの大いなる苦悩に裏打ちされた大いなる愛は、かなわないと思ってしまう。
同様に、仏には父と言うイメージもない。たしかに仏陀は出家する以前には妻帯して子供までいたわけであるから、“父親”である。だが仏教には迷える人間を救う父親としての仏陀の姿は見られないように思う。人間を救うのは観音であり、時として観音は女性化して描かれている。
観音に対応するように、カトリック教会にはさまざまなマリア像がある。黒いマリヤ、あるいはスペインで御輿上に掲げられて街を練り歩くマリア、イタリア・フランスアルプスのバロック教会での、ピンク色の肌に明るいブルーのローブをまとった可憐なマリア像には、人々の信ずる深い“愛”あるいは“憐憫”を見ることが出来る。(マリア信仰はキリスト教がやって来る以前の土着宗教のなごりではないか、と私は思っている。)
これは逸脱になるが、イギリス史に多くの女王が登場するのは、イギリス国教/プロテスタントにはカトリックでのそれに相応するマリア信仰がないことと関連はないのだろうか。これは私の長年の疑問(だがまったく確信なし)だ。
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はなしを本筋に戻そう。プロテスタンティズムと資本主義に関する深い考察はマックス・ウェーバーが書いている(まだ読んでないけど)。キリスト教の源泉であるユダヤ教でも“父権”の概念は強い。
もちろんユダヤ人としての血縁が母親を介して子供に伝わることと、ウッディ・アレンの映画を見ても伺えるがユダヤの母親の“母性”の強さには神話といっていいほどの重要性が与えられているのは事実であるが、流民の歴史を生きてきた人々にとって“家長制度”が大きな役割を果たしたことは疑えない。
また、プロテスタンティズムが時として、カトリックに対立する場面でユダヤ教に近いキャラクターを帯びる傾向があるというのは一考に値する。それは、仕事/ビジネスに関する勤勉さであったり、食や性などの快楽に対するタブーだったり、“父権”の持つ厳格さだったりするだろう。それが一種のマッチズムに繋がる可能性もある。たとえば、米国男性のマッチョぶりに比べると欧州男は女性的だとさえ言える。
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フロイトがもたらした“無意識”という概念は思想・哲学・社会学等々において大きなターニング・ポイントだった、これは無視できない事実である。だが、ドゥールーズ・ガタリの大著(まだ読んでませんが)《アンチ・エディプス》を始めとしてフロイト批判は絶えることがないし、最近は“フロイト自身の病理”というのが(一部で)大きな話題になっている。それはフロイトが打ち立てた“リピドー”なり“肛門期”なり、最初の女性患者の“ヒステリー症”などが、実はフロイト自身の病理が呼び起こした結果なんじゃないか、ということであるらしい。
たしかに、19世紀から20世紀前半の宗教・家庭環境による締め付けが強かった時代においては、性抑圧が精神病を引き起こす大きな要素であっただろう。けれど“リピドー”がアプリオリとして人間に、つまり乳児や幼児に備わっているとは、ホルモンの働きを知る現在人にはどうもしっくりこないわけだ。“口腔期”や“肛門期”の快楽があるとしても必ずしもそれを“性/リピドー”に結びつける必要性はないんじゃあないか、、、。ウンコ・チンコと子供が叫ぶのは禁止句だからなのであって、リピドーのなせる業とは言い切れないんじゃないか。付け加えれば、現在では過酷な競争から、あるいは価値の多様性と逆説的な結果としての人間性の単一化からくる孤独が、多くの精神疾患の原因となっているように思う。
まあ、そんなこんなで疑いは、かの有名な“エディプス・コンプレックス”に行き着くわけです。“子供”が“男”になるためには、抽象的にですが、母親と“交じり”父親を“殺す”必要がある。
だが、殺すべき“父親”自体が“父親”になりきっていない“子供”だった場合、子供の方としてはどうしたら、“男”になればいいわけー、となる。だいたいそれでは女の子は大人になる必要がないんでしょうか、ともなる。
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と今回の三題話はやっと最後にに近づいてきたわけですが、いくらイッキ書きなぐりとはいえ、ちょいと疲れました。そんなわけで結論はなし。たぶんこのあとは“対幻想”が“親子幻想”に変換される話と、“父権”なしのお父さんでもいいじゃない、みたいな話になる気がしますが、また別の機会に続けます。
精神分析学が科学たりえるかということがフロイトにとって困った問題だったわけですが、結局彼の理論は仮定の域を出ることができなかったんですよね。証明できないから。物理学のように自然法則を発見する領域でもないし。
仰るように、たしかにフロイト批判は尽きませんが、私は身近な事例を見て納得してしまう部分があるなあ。「星占いが当たる」のと同じように、たまたま合致する事象だけに目がいっているのかもしれませんが。
と、フロイトさん(の著作)とは2、3年付き合ったもので、つい、でしゃばってしまいました。
しかしすごい愚問だとは思いますが…
なぜペンギンなのですか?支障なければご教示ください。
投稿情報: shiba | 2005-10-02 02:14
お、shibaさんが釣れた、うれしいな。AA略)
一歩下がって眺めてみると、精神分析の出現は同時に sciences/科学主義のおしまいの始まりだったのかもしれません。今では sciences exactes の領域でも“デザイナー”というきわめて観念的主体が話題になっていたりしますし。
私は(恥ずかしながら)フロイト関連文献は“精神分析入門”ぐらいしか読んでないんですよ。最初はサルトルさんにやはり2・3年付き合っちゃったから、現存主義というか現象主義的精神分析になっちゃう。
しかし、shibaさんがおっしゃるように、現在の治療に当たっている精神科医は手持ちのセオリーで実際に症例にあたるわけですから、これは大変な作業だと思います。人間の心の内側で起こっていることは、思想にしても精神分析にしても文学にしても文化にしても、すべてが明確な“形”にはならないからこそ“豊か”でもあるわけですし、同時にバイオ・テクノロジーがどこまで発達しても、人間行動を100パーセント解析はできないだろうな、と私は思っています。
結局のところ、“フロイトの病理”あるいは“フロイトの仮説”は彼の生きた19世紀から20世紀初頭欧州の“知/サヴォワール”をよくあらわしていると思う。20世紀から21世紀についていえば、ドゥールーズの“DESIR/欲望”なんじゃないかな、とふと思いました。
ペンギンですが、単にかわいいので採用しますた。
http://usa.blogs.liberation.fr/2005/09/anthropomorphis.html
仏映画《March of the Penguins》が合衆国であたっているようです。
http://wip.warnerbros.com/marchofthepenguins/
投稿情報: 猫屋 | 2005-10-02 12:58
ぱくっと食いつき。釣られました(笑)。
精神分析って宗教みたいなところがありますね。
ユダヤの教えの影響云々もそうですが、信じれば治る、みたいなところが。
先日、書き忘れましたが、日本ではエディプス・コンプレックスじゃなくて阿闍世コンプレックスという仏教関係のコンプレックスがみられる、という説もあるようです。内容はよく知らないのですが、猫屋さんが仰っている通り、仏教の影響が濃い文化圏では母性の重要性が高いとかなんとか…。ご存知かも知れませんが。
ペンギンが何かの隠喩かと思ってしまいました。飛べない鳥なので抑圧の象徴とか何か。あはは。勘繰りすぎですか。
あの映画でサントラを担当したエミリー・シモン、日本で急に人気が出たそうです。
投稿情報: shiba | 2005-10-04 01:27