結局おととい夜中に書き連ねた文章はまとまらないままだが、なんでベケットの顔が出てきたかは分った。
『ゴドーを待ちながら』は結局、tsunami や飢饉や、紛争・ジャノサイドだの、部族間抗争とか新植民地主義とか、陰謀だの軍産システムだの、踊る会議だののきりがない連鎖の、やってこない終わり(ゴドー/GOD ? )を待ちながら、ああでもないこうでもないと埒(らち)の明かない考えを繰り返す自分のことだったようである。 (ま、いいか。物言わざるは、腹ふくるるわざなり)
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ソンタグは、戒厳令下のサラエボで NATO の爆撃を待っていたのだろうか? たしかに、NATOによるユーゴ爆撃は4年近く続いたサラエボの戒厳令を解除した。しかし米軍力にたよったあの介入に関しては、そこまでに至った各国間のかけひきの真相も、またその後の政治的結果についても懐疑的見方をする人間が多いようだ。なにより冷戦後の、イラクへといたる一連の米軍(人道的)介入のきっかけでもあった。また米国依存から脱却したい(英国も含めた)オールドヨーロッパが、NATOとは別枠でEU軍事力所有を図る契機ともなったわけだ。
ラジオインタヴューで、ソンタグは『病気の友人を見舞うように、わたしはサラエボに行ったのです。』と語っていた。
彼女の真摯に間違いはない。水も食べ物も充分にない、そしてスナイパーがどこからか自分を狙っているサラエボに生きていたら、解放としての爆撃を待つことになるのだろう。2001年9.11時、彼女はベルリンにいた。米国のアフガニスタン攻撃の時、彼女はニューヨークにいたはずだ。イラク攻撃開始時はイタリアにいたと思う。
ソンタグのことばは、ままにしてぶれる、そして時には矛盾している。その大きな原因のひとつは、エンガージュメントという意味で、そして旅行するという意味で、彼女が動く人だったからだと思える。そしてまた、その研ぎ澄まされた感性と想像力のせいだ。ベルリンでの講演では『私の中には2人の人間がいる。あくまで冷静で論理的な批評家と、感性で生きる小説家の2人。』といったことを言ってたらしい。(←記憶で書いてすいません。なお、この講演内容は日本で出版されてるようである。)
しかし、彼女は“間違う”危険を充分認知し、その上で行動し、行動しながら考えを言葉にしていたと思う。危うさを知りながらも、そうせざるをえなかったのだ。(現在解体中の)ルノー工場の前で反政府ビラを配る、晩年の、ほとんど盲目のサルトルの写真を思い出す。
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次回の思想編のようなもの、はヒューマニズムの限界、にしようという気になる。
追記 : さっき見つけたソンタグのあれこれ vrai-faut passport
NYタイムスのイラクでの米軍による拷問に関するソンタグの寄稿
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