« サルコの改革、どの改革? | メイン | いかに米国政権は国内報道を加工したか:ル・モンド記事翻訳 »

2008-04-18

コメント

bxev

こんにちは、久しぶりに覗いて見ましたら、だいぶトーンが変化したように思います。

以前よりも流れが軽やかになった感じです。春のせいでしょうか。

猫屋

やけ、です。
というか、世界の日本化でしょう。

何か日本での状況が世界的な次元での問題になって展開しているということでしょうか?


猫屋

きわめてミクロな生活次元における、メディア管理や監視システム(カメラ・警察など)、それから個人商店・飲食店の店じまいとショッピング・センターやチェーン店の展開、(郊外のセカンド・ハウスでのんびり、あるいは車で教会や美術館周りだった)週末のショッピングセンターで過ごされる家族のレジャー。まんがやタケシ城をはじめとしたアノテの番組が米欧で受けてる。TVや駅やメトロで流されるアナウンス。環境騒音。

1984のモデルは共産国だったわけですが、おなじような“高度管理社会”現象が高度消費文化国に起こっているという印象を持っています。イタリアでもそうですが、左派の解体があるし、このごろの大手サイトのコメント欄見てると、書き込みがだんだん2ch化してる気もしますし。

これは仮定ですが、米国傘下にあった日本は、1989年の冷戦終了を待たずに、すでにアフター冷戦を準備していた(アフター冷戦とは、ポスト工業化とも重なると思いますが、ネオリベラル資本主義のこと)とも考えられるでしょう。

そうですね、この逆ユートピアの問題は何時の時代でもどこの社会でもあったことだと思うわけです。人間社会があるかぎり存在するのでしょう。その支配の仕方が多少異なっているだけでしかないと言うことでしょう。民主主義も独裁主義もそんなに遠くかけ離れたものではない。そういうことがわかってきたわけです。

だから最近のサルコジ大統領などの百面相ぶりが指摘されても、全然その本質はかわってないわけで、むしろこれは当然のことなのです。今度のチュニジア訪問ではその言葉の形相と主張の内実が明らかに乖離し分裂している発言となっている。これがある意味での氏の支配のスタイルなのでしょう。

問題は、これを指摘し報じないメデアの存在です。ラマ・ヤッド氏が演技に協力しているだけではなくジャーナリストもそれに加担して報道自主規制をしているわけです。その意味では猫屋さんが最近書かれているような体制内取り込みが進んでいるわけですね。ここでも。実際的には、フランスのニュース記事やそれを扱っているブログでも、形態はかなり客観を装っていますが、言わんとするところはかなり体制偏向しているのが増えてきている。これも同じ共犯者です。

この逆ユートピア的世界には、反体制も取り込む機能装置が準備されていてそれには猫屋さんの言われる環境雑音まで入っているわけです。

しかし不思議なことが今起こりつつある、昨日、仏社会党のフランソワ・オランド書記長がサルコジ大統領は調査結果で姿を変えると言うような事を言ったそうですが、これは大統領も鵜飼のような姿を呈しているというか、猿マネを演じさせられた操り人形ということになってくるわけで、そう言う意味からするとこの逆ユートピアの世界には生きた人間が、そして自己を思考できる存在が一人もいないことになるわけです。そういう恐ろしい世界を目の前にしているわけですが、これも今始まったわけではない、オーエルの時代にもそれ以前にもあったものでしょう。


猫屋

ええっと、当エントリーに戻ると、これは(失敗したけど)プレス記事のパロディだったわけです。大手メディアのクリシェがブログ圏でも幅をきかせているし、オリジナルなものも気をつけないと陰謀論という罠にはまる:たとえば田中ウ氏が陰謀論にいっちゃうのは、英語プレス情報のみを元に書いてたから、ある意味ではこれは必然的かな、と考えています。

ネグリのフランス・クルチュールの録音は、残念ながらリアル・プレイヤーが起動してくれなくて、聞くことができなかった。が大体彼の言うことは想像できる。フーコーの思想の展開で、帝国とマルチテュードという概念は魅力的だけど、そのあとの具体的(分析と示唆)がないところが弱い。

アタクシとしては、(いちおう)ヘーゲル風味の“歴史”の変容というのはあると思っていますから、いつだって世界の本質は同じだという発想はなくて、歴史はそれぞれ時代が節目(パラダイムチェンジでもいいし、文節でもいいんだが)を持っていて、またそれぞれの時代が独自の構造を有する。そして(当たり前なんだけど)誰もこの後何が起きるかわかんない、となる。

個人が出来るのは、せいぜい地下室から逆環境ノイズを発することぐらい、なんでしょう。もちろん、帝国内ですから、敵も見方も見分けがつかない都市ゲリラ戦で、大いなる喜劇の様相(あるいは悲惨:違法労働者が労働組合本部を占拠とか)を呈している。バディウは(正しいか、間違っているかは別としても)、オルター運動を批判して、われわれが生きる世界はひとつしかない。別の世界を夢想するのではなく、この世界の機構を変えていくべきだ、といっています。

あと、こちらも批判すべき点もたしかに多いですが、チベット-中国と、モンサントの件は、ケース・スタディに値する動きだろうと思います。なにしろ、相手はパイロットなしで地球という飛行物体を操縦しているわけで、ジェダイは理力を使って言葉を再発明すべきでしょう(罠に陥ることなく)。

しかし、サルコはひどい、ひどすぎる;メルケルのご主人をミスター・メルケルと呼んでバカにされてました(メルケルは女史の前のご主人の名)。まあこれは、あんまりひどいんで批判する気も起きなくなる(アタクシ)という陰謀なんでしょう(笑)。ってか、明白な戦略は陰謀ではないんですが。

この記事へのコメントは終了しました。