いくら来訪者の少ないハピー・フューな当ブログとはいえ、実際武道をやってらっしゃる方に 『何をおっしゃるウサギさん、そんなら私と一本勝負』 などとアポストロフ/荒々しく声をかけられたらどうしよう、という危惧はままあるのですが乗り出した船は止まらない。行って見ます。
*
さて、《形》と《自由》を逆さにしてみた。この入れ替わったふたつの言葉の間にで浮かび上がるのはたぶん《身体性/カラダとかイシキとかそれに絡まるすべてをまとめたもの》だろう。この段階ではなんとなくそんな気がするだけなのだが、ちょっとグルグルしてみる。
全日本剣道連盟 による剣道形の定義。
「日本剣道形」の制定 剣術は創生期から幾多の流派に分かれ、形も各流派によって異なっていました。大日本武徳会は、将来の剣道の普及・発展を図るためには各流派独自の形に基づいて、新たに基本となるべき共通の形を選定する必要性を認め、明治44年12月に調査委員会を発足させて、草案造りを進め、大正元年10月に太刀の形7 本、小太刀の形3本、合計10本の「大日本帝国剣道形」を制定しました。なお、第二次世界大戦後の本連盟発足に伴い、この形は名称を「日本剣道形」と改めて現在に至っています。
3月にあったパリ大会に私を連れて行ってくれた友人が言うには、形とは諸流派の形をあつめてあって剣道に必要な動きのすべてがこの10本の形の中におさまっておるのだそうだ。
ここで、一緒に行った普通(この場合剣道オタではないという意味)の仏人が、「なんで右足から最初に出さなきゃいけないわけ」とオブジェクションを出した。ま、いいところに気がついたねーといいたいところだがそうでもないようだ。竹刀の柄に近い部分をを握るのが右手であるから、どうしても右足が先に出ることになるらしい。練習では、左から出すのもやることはあるようだが、基本はあくまでも右足が先。
しかし、よく考えてみるとあのススっという足さばきは、能とかお茶とか地唄舞とか派生としての暗黒舞踊とか法事のときの坊さんの白足袋の動きとかを思い起こさせる。(専門家はまったく違う、とか言うのかしら、確信なし。)少なくともクラシック・バレーやフェンシングのばねを利かした上昇型足さばきではない。
以前、友人からカセットを借りて観た剣道関係NHKスペシャルでは《頭の中を真っ白にする》ことの重要性が語られていた。これはどのスポーツにも、ある程度は言えるんじゃあないか。ただ、格闘技やサッカーなどの体当たり式球技では“相手を倒す”アドレナリン増強が必要になるだろう。番組内で剣道世界選手権優勝者は《対戦者にではなく、自分に勝たねばならない》というのも言ってたな。
形のなかに自己=身体性全体を入れ込み、自己=身体性をいったん消去する。すると精神/コントロールするもの、と肉体/コントロールされるもの、の境目/あるいは境目と考えられていたものも消去する。あとは対戦者の動きを見る《まなざし》と身体性のもつオートマティズムが消去された《自己》に取って代わる。そこではある種の超越が行われる、とか言って見る。
自己を忘れて自由になる。これは魅力的だ。《形=自由=身体》といってもいいと思う。
精神≠肉体という西洋志向が行き詰ったことと、剣道をはじめとした武道が世界のいろいろな所でさかんになったことは平行した現象だと思える。いつかパリ-東京のフライトのバー(今はなくなった、残念)で話し込んだフランス男性は「柔道はただのスポーツになってしまった。やるなら剣道か合気道でしょう。」と邦人の俺にニッポン武道の素晴らしさをたんたんと話してくれた。
*
さて、今回の試論をもって回答編にかえさせていただきます。単なる武道傍観者であるnekoyanagi は自己採点できないし。チャンスがあったらまた剣道家に聞いてみましょう。その時点で追加報告レポートも書きます。なお、突っ込みがあったらどんどんどうぞよろしく。
コメント