実はこの文章、おとといの夜書いたんだけど、終わってアップロード中(久しぶりにだが)またしても消えてしまったのだった。はじめの部分だけ助かっていたが、力、抜けた。
なんかやっぱりもったいないので、再現してみる。
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風邪引いて数日家にコモっていたら、「春だ!」の声がそこここから聞こえ、暖房のほぼ止まったコンクリートのアパートで寒い寒いと布団に包まってるのも飽きたし、ごそごそと起き出した。
ほんとだ。嘘みたいに天気がいいではないか。春だった。
それで、冬のコートじゃなくて夏用革ジャンにバイク・ブーツで、レアールまでガス・ヴァン・サントの新作Harvey Milk を観にいった(なおこのタイトル、米国・日本では単にMilk)。
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ハーヴェイ・ミルクは1070年代に、始めて自分のホモセクシャルを公にして米国の政治職に就いた人間だ。だが、サンフランシスコ市議選挙に当選して一年もしない1978年のある日、当時の市長とともに暗殺されてしまう。
このハーヴェイが、40歳を迎える日ニューヨークのメトロで通りがかりの青年をナンパする場面から、8年後の暗殺までを描いたのがこの映画だ。
イントロダクションには、1960年代のニュース・アーカイブ映像が、ああこれガス・ヴァン・サントの処理だなあ、ってカンジでクールに使われている。それはゲイ・バーでの警察一斉検挙のドキュメント映像なんだけど、その場にいた男たちはみなカメラに対して顔を隠すんだ。
あの頃は、ホモセクシャルであるということが、法的にも、モラル的にもそれだけで罪だったんだ。それを隠して生きることが「正し」かった時代だった(なお、この映像が1969年のStonewall Inn のものかどうかは不明:ネットで探してる途中、ウイルス拾っちゃってアキラメタのだ)。
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脚本賞(Dustin Lance Black
)に並んで、主演ショーン・ペンがオスカー主演男優賞を取っている。
個人的には、永遠のバッド・ボーイ的ショーン・ペンって(オーヴァーアクションすぎて)あんまり好きじゃないんだけど、この映画では役者としてのぼりっ調子の頃(レニー・ブルースからトッツィーのあたり)のダスティン・ホフマンを思い出した。よく考えれば、ウォール街のジューイッシュ金融業者だったミルクを演じるのに、(ペンはメイクの時点でツケ鼻つかってたみたいだけど)フィジカルな役作りの段階でホフマンを意識していたとしても不思議はないだろう。
ショーン・ペンの、とても《アクター・スタジオ》的演技が、ゲイで政治家という極めてオーバー・アクションなキャラクターにクロスして、うまくいったのかもしれない。
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さて映画としてのできについては、いろいろな見方ができると思う。
クラシックなビオピックス、つまり伝記映画としてはいい出来だと思う。
ガス・ヴァン・サント映像のファン、つまりジェリーやエレファントの、あのワケワカラナクサが大好き、という人間はちょっとがっかりするだろう。
上にも書いたけど、ドキュメント映像の使い方はさすがだが、いつものハっとするようなリリックなカットは少ない。トレード・マークの長い廊下も、最後の市庁舎での暗殺がらみのシーンぐらい。デモの撮り方(カメラで下から上に)とか、音楽のドラマチックな扱いも、全体がハリウッド王道型伝記モノのつくりになってるから、さほど目立たない(オペラのシーンはちょっと?だったけど米国ゲイ受けにはたぶんあれでいいんだろうなあ)。
今回の映画ではかえって、ランス・ブラックのシナリオの重要性のほうにバランスが行っててヴァン・サント色がそんなに出てない、というのがアタクシの印象である。これは、好事家(オタクのことね)向きの映画ではなく、一般観客を対象にしたメジャー映画なんだ。
だが、これは政治的映画だとみなすこともできる。そう考えたら、この映画は悪くない。ぜんぜん悪くない。
説明しよう:40歳になって、人生を変えようと当時もアメリカでもっとも自由だったサンフランシスコの、それも最もゲイが多かったカストロ通りに、ボーイフレンドと写真屋を開店したハーヴェイは、そこでも周囲の住民や警察から、自分たちがまともな人間としては扱われていないことに気がつかされる。やがて、彼は抗議行動を次第に組織化し、ゲイであることを隠すのではなく、逆にオープンに表明するという作戦をとりながら政治化させる(つまり連帯から組織化に持ってく)。
何回も選挙で敗北しながら、(ここらへんとこはかなり政治の裏の話も出てくるわけで)ロビーイングやポピュリズム、マーケティングとかの米近代兵器を使いながらも、同時に仲間を増やし、力をつけていく。この、同志を募って、っていうか指導者が同志をひきつけていくという過程は映画「チェ」の第一部にもあったですね。
では、この映画はホモセクシャルの戦い(だけ)を扱った政治映画かというとそうじゃあないだろうね。最終的にミルクは市議選挙に勝利するんだが、それはミルクが退職者、低賃金労働者、シングル・マザー、アジア系移民、ヒスパニックなど、つまり他のマイノリティに支持層を広げる戦略をとったからだと、この映画は教える。
ハーヴェイは、彼の新聞記事を読んだと電話してきた、自分のホモセクシャル性を隠し続けられず苦しむ少年に「すぐさま家を出ろ。大きな都会に行け。」と説き伏せる。「田舎で生きようがないと苦悩する少年たちに、希望を与えるんだ/ Hope !」と言うとき、その姿には、大統領選挙を戦ったオバマの姿が自然に重なってくる。
一般大衆を対象とした、政治映画だという意味はここいらにある。エイゼンシュタインや、ちょっとガクンと時代は変わるがケン・ローチとかの外国監督を別にしても、米国にも米国風政治的映画ってのはあって、隠喩的政治傑作映画作家とでも名づけたくなる(結局米国を追われる)チャップリンや キューブリックや、ハリウッド型政治映画の「レッズ/Reds」や「ジュリア」とかあって、今回のガス・ヴァン・サントの作品は後者の流れだ。
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映画の最後のクレジットにJeff Koons の名前があってびっくりしたんだけど、つい先だってヴェルサイユ宮殿に巨大ぬいぐるみ芸術を展示して話題になってたアーティスですよ。どれだ?パリでのインタヴューによると、ヴァン・サントとランス・ブラックが「TVで彼のこと見て、なんでも売りそうな顔してるんで頼んでみたら出演してくれたんだ」そうだよ。考えてみるとヴァン・サントはここらへんの戦略がうまい。エレファントで、コロンバイン高校連続殺人事件を扱ったり、ティーンの神様であるカート・コバーンを持ってきてラスト・デイを作ったり、話題性というのをうまくチョイスして実験的作法をコマーシャル性に結びつけている。
さて、市長とミルクを暗殺するのが超カトリックの元議員Dan White(Josh Brolin)なんだけど、この男の分からなさ/ ambigu、をもっと追ってったら面白くなるのになあ、もったいないと思ったんだけど、これはハリウッド型サクセストーリーの枠では無理。大体展開してもブロークバック・マウンテンでヒースがもう演じちゃってるんだった。やっぱり無理だ。
と言うわけで、ガス・ヴァン・サントのユニヴァーサル・メジャー映画なのだった。
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ぜんぜん関係ないんですが、明日のフランスはゼネストです。交通機関、各種公共団体のスト率は前回(1月29日)と同じぐらい、あるいはもっと低いかもしれないですが、期待されるのはデモ参加者数。意識調査では住人の78パーセントぐらいがストを支持してる。
政府サイドは前回と同じく、ラジオTVで「スト・デモする理由が分からない。不況は世界中どこも同じ。スト決行するとそれだけフランス経済が弱体化するだけ」とメッセージを流し続けています。が、この一ヶ月半の間にもワレラガ・ニコラス一世は、メキシコで豪勢に遊んでくるは、誰も頼んでないのにNATOにフランス復帰させちゃうことにするわ(あれはオトナになれない小男のド・ゴール=父性の否定であろうか?)、大不評の税上額枠(税の盾50パーセント)法は絶対引っ込めんもんねと居直るは、エリゼ宮顧問は公務員じゃあないから天下りもOKと勝手に法解釈するわ、ベルナデット・シラクに勲章授与したりミシェル・ロカール(元社会党で元首相)を南極・北極大使(って、あったんですってサ)に任命するわ、ダティが退場と思ったら今度はモラノというとんでもないのにメディアで怒鳴らさせて話題づくりにがんばってみたり、、かなりパラノイヤ度が増してきたわけで、こりゃ腹立たないほうが異常であろう。
どこもかしこもパニック状況で、あのカタストロフ映画ばかりで疲弊しきっちゃったハリウッド映画界において“政治的”ドラマツルギーがメイン・ストリームになる可能性だって高いのだし、フランスでも、フランス型映画、つまりミニマリスト(箱庭主義的)政治性映画 Welcome が話題になっている。これはドーバー海峡を渡ろうとする若い違法移民をルーザーである水泳インストラクターが助けると言う設定の映画であるらしい。
2008年9月の経済危機とともに真の21世紀は始まったのかもしれない。そして21世紀が政治的世紀になる可能性も極めて高いのだ。FTとか読んで、経済危機からの脱出は労働のさらなるフレキシビリティ拡大にある、なんて信じちゃだめだよ。
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なお、ギネスの写真もミルクとは関係なく、映画館から出たとこのアイリッシュ・パブであんまり天気がいいんで頼んだギネスです。何はともあれ春を祝って、乾杯なのだ。聖パトリック祭だしね。