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2010-10-04

コメント

トラ

隠れファン3号です。

環境問題も経済問題も個人の意識改革に
かかっているということですか。

猫屋寅八

たとえば、カネナイ症候群に悩む(アタクシを含む)多くの人々は、すでに消費スタイルを大幅に変えたわけで、その結果もっと物が売れなくなってる。これからの金融引き締め策で欧州の不況はさらに悪化するだろうし、ドルは助かる見込みがない。中国の社会問題も出口なしだ。

コストダウン競争も飽和点に達した。クレジットという「不思議の玉手箱」も限界。

「知」の非対称性に、つまり金融・経済・科学全般あるいは医療などの超高度知識と大手メディアとエンタメ業界による一般人の幼稚化あるいは痴呆化に対抗して(できは悪いにしろ)自分の頭で考えてみるほか生き残る道はないんだと考えます(ネットという武器があるし)。

トラ

「知」と「感性」そして「経験」この三つは平行して平等な価値を有すると考えます。ネットは有効な武器になりえる代わりに、「経験」というものを奪っているようにも思えます。情報は常に3次元的であるべきで二次元では、本当の形は見えません。
ロバート・レッドフォードの映画「大いなる陰謀」(邦題)で彼が演じる教授はある才能ある生徒に対し、(この場面では政治運動としてポスター張りをすることが述べられます)政治的な発言や、政治家のことを言ってはいても実際に行動する経験がないことを問題にあげています。

なんだか纏まらないですが、さまざまなお金のない小さなNGOが存在する中で、結局変わらないからといって参加しないことや、誰かが何とかしてくれるという「楽観主義」が蔓延しているのだと思っています。問題意識を持ち、「実際」に行動すること(もちろん考えて)が求められる時代だと考えます。

頭が弱いので、このような文章になってしまいましたが・・・では

トラ

ちなみに私は金融には疎いので、他の隠れファンの方とは違いますが、いつも楽しく拝見させていただいてます。ご自愛ください。

猫屋寅八

トラ氏、
ふたつもコメントありがとうございます。
なんだか毎日かなりの量の文章(大体英と仏)とヴィデオも見てるんですけど、まるでメクラが像をさわってるような調子で、言葉に再構成できないまま時間ばかりが過ぎます。
トラ氏が言う「知」と「感性」そして「経験」、“身体的に”よく分かります。だが、それを(私の場合)文章化、つまり再建築できないので、若干辛い。

特に、なぜかまったく別世界と思っていた金融・経済に足をすくわれ泥にはまってしまった。でも、最初の動機は“なんで自分はここにいてこんなこと(金勘定)してるんだろう”という単純な疑問です。

哲学系では、ニーチェに近いんだろうと思うけど、神がいない以上、世界とは私なんだ。世界を理解することが自分と言う(実際には過去や環境とは独立した一個としては存在しえない)存在を理解することなんだろうと信じるに至りました。で、この世界の理不尽性に腹が立ってる。で、文でも書かないと(まあこれも公害の一緒ですが)、自己爆破しそうになるしね。。以上、猫屋のミアクルパ。

で、同時に時間、あるいは生とはなんだろうとか、ボオーと考えて、結局のところ、できのいい音楽とか(仏語の時制アーキテクトをうまく使った)文章とか絵画とか映画とか写真とかは(別のカテゴリーですが自然も)、個の時間(生涯)を越えるのだ、と今頃になって気が付きました。

そうすると、個の孤独も簡単に凌駕できるし、超越は無理にしろ死もそれほど怖いものではなくなってくる。本さえ開けば、先人達との会話ができる。森に行けばそこではさまざまな生がまだまだすさまじいエネルギーで生きている。

ただ、そうした文化や自然を、簡単に人間が破壊してしまう(日本語でうまい時制が見つかりません)としたら、逆説的に「人間は種の、自然淘汰の、システムのトップであるのだから」勝手にシステムを破壊した、と言う証明になるのでしょう。

今回のとんでもない世界危機に立ち会って、過去に読んだ本や、2001年などの映画とか、ジョンレノンの声とか、大恐慌時の写真とかがいっぺんに思い起こされてくる。私になにか誇れる「宝」があるとしたらこれだけです。でもこれだけの「宝」に対して、私はなにかを世界に返さなければいけないなあ、とボンヤリ思ったりする。

いずれにせよ、生まれてきた以上は、これから何が起こるのかを、しっかり見てやろうと思っていますので、つまりあと30年ぐらいは(回転はますます遅くなっていますが)体調と大脳皮質をうまくマネージメントせなあかんわけです。。。なんかむちゃくちゃ書きましたが、御容赦あれ、ちょっとブルゴーニュの白飲みすぎです。

トラ

人間は自然の淘汰のトップにいるという考えを
捨てなくてはならない時だと考えています。
良くある食物連鎖の三角形をぶち壊して、少し変えて
逆にして、その最下層に人がいるといった考えにシフトする、
といった考えです。

キリスト教的(古代ケルトは含まない)考えであれば神により人間が創造され、その下に動植物が置かれます。現代の理科ではなく科学というものの教えは、西洋科学と呼ばれるものに近く、万物を人間が操作しても良いといった考えに結びついていきます。工業化もそ一環であり西洋科学の書斎科学?においては実験が主になるはずですが、その実験施設を大きくしたものが工場であり、どこにでも建造できるために産業革命後一気に世界中に広まりました。そしてそれが資源を食い尽くしているわけですけれど、よく言われるとおり「人間は何も創造はしていない」は芸術においては判りませんが、石油生産と言った場合ですが、何も生産しているわけではなく、もともと在った物をいただいているだけです。

そんなこんなでまた纏まらないですが、本当に何ができるのか考えています。小さな脳みそをフル回転させてますが、なんせ容量不足でいろいろなことを纏めるので精一杯です。

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