こちらの、21世紀の現代性全体を批評したボリス・シリュルニク(と読むんだと思う/Boris Cyrulnik)のル・モンド記事も訳してみます。氏は、精神学者にして、神経科医、そして民族学者でもあるという異色の人物。1937年にボルドーに生まれていますが、子供だった第二次世界大戦時にはトイレに隠れてナチスのユダヤ人狩から逃れたという経歴も持っています(両親はともに収容所で死亡している)。
Malheur au vainqueur !, par Boris Cyrulnik
勝者の不幸!ボリス・シリュルニク
ル・モンド 2009年6月20日
ダーウィン年である今年、“進化”という言葉と“適応”という言葉は、誤解の元となって論争熱を巻き起こす。
ダーウィンはそのアイデアを組み立てたにしても、“進化”という言葉を用いたことは一切なく、19世紀にこの言葉は軍事パレードを指していた。“適応”という言葉にしても、個体とそれをめぐる環境との間に起こる相互作用をアレンジする生物学的プロセスを彼は指し示していた。そこでは、新しい環境で生き続けて行くに最も適した生物が恩恵を受ける。
最も適したということは、ナチスが主張したように最も強いわけではない。地中海沿岸地区に見出せる極めて遺伝的疾患:サラセミア/la thalassémie ;地中海貧血がその証拠だ。遺伝子全体は、血液中で酸素を運ぶ小さな鉢である赤血球プロテインの総合だけで情報伝達するわけではない。鎌(カマ)のようにねじれた異常赤血球はしばしば激しい貧血を引き起こすが、同時にマラリアを媒介する蚊を引き寄せるフェロモンを発散させなくする。こういったコンテキスト内では、正常な赤血球を持つ人間はマラリアによって病気になるか時には死亡するが、サラセミアが原因の貧血に苦しむ人々は、生き残るのに最も適していることになる。
したがって、精神障害の国際分類が表明するように、適応は必ずしも健康のしるしではない。生物学的には、ひとつの精神障害が適応を可能にするケースもある:動物園の檻に閉じ込められた哺乳類は、睡眠過多症、爪かみ症とステレオタイプの徘徊症によって適応し、結局は鉄格子にこすり過ぎて脚先のクッション部や鼻先を痛めつけるに至る。
独房に隔離された囚人は、妄想を拡大することでこの何もない新しい環境に適応する。隔離された人間の頭脳は対象のない認識を作り上げ、現実には存在しない想像上の声や視覚を聞いたり像を見たりし始めるとやっと落ち着く。これは人間性の欠如した世界に適応する精神疾患である。
適応の成功が、適応しすぎた生物種を絶滅に招く場合さえある。1916年、5頭のSika鹿(Sika;原文ママ)がバンクーバー近郊のジャム島に移植された。環境は彼らに適切であまりに生きやすかったがため、1955年には素晴らしく健康そのものの鹿の数は300に増加した。しかし、突然その鹿たちは病気にかかり、3年弱の間にすべて絶滅した。
この死を説明する医学的理由も事故もなかったし、猛禽もいない環境は完璧だった。だが、ある内分泌学者がこの選別の原因を見つけ出した:原因は彼らの適応の成功自体だった!桃源郷で幸福に暮らしていた鹿たちは、繁殖しすぎ、相互作用という儀式を行わなくなっていたのだ。広大だった空間は狭すぎるようになった。すべての鹿が同時に鳴くので、鳴き声のハーモニーも不可能になった。そして、それまでは充分だった牧草地が頭数増大のために破壊されてしまっていた。
鹿の適応成功が、牧草地を疲弊させ、それが鹿の弱体化を招いた。増殖の結果としてのグループの構成儀式からの逸脱が、テリトリーの減少をもたらし、(相互作用)儀式を妨げ、結局のところ、すべての鹿が他頭に対する攻撃者となった。ストレスが致命的にまでなった:高血圧、消化器内出血、副腎の疲弊が3年たらずの間に鹿の消滅をもたらした。勝者の不幸!
この民族学的比喩は、人間の条件についての思考を促さないだろうか。自然を支配する人間存在にとっての牧草地の疲弊とは何であろう? 私たちがひとつの成功を勝ち取るたび、私たちはその成功を最大限にまで活用し、増長し、自分が適応してきた自然自体を変容させるまでになった。私たちの適応の成功は、私たちを非適応化するに至ったのだ!
エピナルのイメージ(訳者注;エピナル版画=素朴にすぎる見解の意)がそれをどう描こうと、19世紀まで死とは汚れたものだった。子供たちは中毒に原因する下痢にまみれ、女性たちは産褥の血に、男たちは事故後の膿にまみれて死んでいった。抗生物質が感染病原菌に対する勝利を可能にして以降、人はあまりの量の抗生物質を用いたため、この輝かしい発明はダーウィンのセオリーに忠実に、新しい環境で生き延びるに最も適した細菌の選別を許し、かつての感染疾患が再び現れても治療が不可能となった:勝者の不幸!
このプロセスは文化面でも繰り返されている。私たちの、言葉と道具による策略世界を発明する能力は、自然の課する制約を回避するまでになり、挙句はその自然を 破壊することになった。うまく行過ぎると、すべてを失うまでに行き着く。うまく行った事例を繰り返し過ぎると、うまく行かなくなる;なぜなら、私たちの成功が適応 を取り巻いていた環境を変えてしまうからだ。
ジャム島の鹿たちが行ったことを、私たちは感染細菌を対象として行い、さらに私たちは同じことを、経済と物語に対して行うようになった。通常、投資家は市場情報を集め、分析し、、、そして『理性的に』判断する。だが、この論理的プロセスはまれにしか現実化されない。1982年以降、株価が沸騰し始めて以来、世界市場が過剰化し、壁が崩壊し、東欧あるいは中国の人々がやっと消費者となる可能性を得た時、インターネットが世界市場を可能にした時、貨幣は正気を失ってしまった。株ブームの陶酔のなかで、なぜなら他の投資家が買っているからという理由で、分析なしに判断を下した。投資家たちは上昇株を買い集めた。
この株ブームの陶酔は、理性ではなく、擬態によって説明できる。誰もが買っているから買うのだ。幸福な隣人と同じ自動車を、同じ家を、同じ退職年金基金を欲しいと、非理性的な投資家は考える。単独の購買は市場を変えないが、考えの伝染は、傾向を誘導することで金融動向を引き起こす。この陶酔の幻想が信頼を生み出し、それが市場の成功をもたらす...バブル崩壊まで!合理性とはすでに数学的ではなく、進化的なのだ:それは、過剰がシステムを狂わせるまで有効なのである。心理学的付和雷同主義(le panurgisme)は、陶酔状態の羊たちが断崖から転落するまで、経済レースに介入する。この牧草地の疲弊プロセスは、テクノロジーのおかげでさらに効果が高まった。インターネットは、その超言語性をもって、言葉よりさらに、互いに遠ざかっていた情報群を一同に集める。このテクニックの勝利は一種の論理的錯乱をもたらし、成功の連続は、最後にはエコノミストたちを現実から切り離すに至る。
テクノロジーと金融の恐るべき成功は、政治的および軍事的失敗をもたらした。極めて富んだ国だけが、ドローンや高レベル装備の兵士を持つことができる。アシメトリック(非対称)戦においては、富裕国が常に勝者である...小型ロケット弾を担いで小型バイクに乗ったひとりの男を、貧乏人たちが発見するまでは。。。
この単独の戦士はヘリコプターを落とし、藪影に隠れることができる。訓練をつんだ巨大な軍隊は、簡単に領地を占領できるが、それは意志の堅い少人数のグループが見えざるテロリスト、学校を爆破して自らの法を強要し、市場の群集にまぎれる一人の男を見つけ出すまでだ。戦闘に打ち勝つ必要はない。なぜなら敗者が彼らの法を課すのだから。勝者に不幸を!勝者はその優れたポイントのせいで死ぬことになるだろう。___________________________________________________________
Boris Cyrulnik :民族学者、精神科医。Sud-Toulon-Var 大学ディレクター(人間民俗学)、不幸を前に反発/ "rebondir" する人間の能力;"résilience" コンセプトを展開している。最近には、Odile Jacob 社から2008年のルノドー・エッセイ賞を受賞した《Autobiographie d'un épouvantail / 案山子の自伝》、また《Je me souviens... / 私は思い起こす。。。》 ( L'Esprit du temps 社、 90 p、 9.50 ユーロ) を出版している。
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