西部戦線異状なし、ではなくアンチCPEムーブメントに大きな動きは見られない。ド・ヴィルパンTVスピーチに関する私の感想は前回と前前回ブログ・エントリーのコメント欄に書いたので今の時点でさして書くべきものがない。
なにやらどうもこんぐらかっているわけだ。などと考え始めるやたら寒い春の夜である。一年に四つの四季があったはずが、気象さえもトチ狂ってる。
昔はよかったと言い出すつもりはさらさらないが、それにしても冷戦時代にコトは単純であった。ソヴィエト・ユニオンとナチス・ドイツを足して2で割ったようなコステュームと同様なアクセントで米語をしゃべるメイド・イン・ハリウッド映画の図式さえ信じればどうにかなったわけだ。対する鉄の壁の向こうではその図式が反転されていた。
今夜はまたテレビをみてしまった。アルテでバグダッドの家庭内日常生活についてのドキュメンタリー。続いてイラクで一年を過ごした米兵達にその期間付き合ったドイツTVクルーが映し出したこちらも米兵士の日常。こちら側とあちら側。ベトナム帰還兵だった父親が離婚後自殺したという米人軍曹が、前線に出ればほとんど時間を共に過ごした記憶のない父親を理解できるのではないかと思って志願したと、派遣直後に語っていた。そしてイラクで“戦場”が何であるのか理解し始める。少なくとも彼は生き残り、母国に帰った。だが何かは失われたままであり、軍曹はその喪失を二倍返しに生きなければならないのだろう。
なにが失われたのか。
ここで問題なのは、その冷戦時代という過去のシステムがいまだ分析されていないことにもあるだろう。経済モデルにしても同様なことが言えるんじゃないかと思うんだが、モデルなりシステムは一端終わった段階でしか分析の対象にならないのではないか、少なくとも経済や政治といった人間活動に関しては。なぜなら分析の対象となる“事象”が動き、絶え間なく変化する、同時に絶え間なくその限界(国境でもいいが)が変貌する場合、大体が限定対象(オブジェ)とはなりえない。(ここでゲーム理論が登場するのかもしれないけれど)
論理と信仰は相容れないと、やはり思う。なぜなら信じることは事実を前倒しに未来に押しやる行為だからだ。その伝で言えば、最終的には人間の数だけ、さらに言うならば一個人が絶対的固定ブツではない、つまり常に変化するやっかいな分裂した動物である以上、どこまでもアンフィニ(無限)な信仰があるとみなせばならず、結果、対話とは対立が目的であるような恒常的対立であり、ジンテーゼは永遠に確立されない。対話は交換である。対立とは対象を消せ、ということだ。
なにが失われたのか。
そして対岸には誰が、あるいは何が存在しているのか。
いや、もう一度現実フラグメントに戻ろう。
対イラク戦争は始めてはならない戦争だった。
それは“パンドラの箱”を開く行為だ、と西ヨーロッパと中東の多くの人間が警告した。あれだけの大幅な反開戦デモがあったのは、この戦争が行き着く先がどこかで分かっていたからだろう。
結果として国連はさらにその力を失い、民主主義と自由と力のかたまりだったはずの米国が国際法を無視し、自国の法を無視し、人権と法と民主主義自体の信憑性をとんでもないレベルまで押し下げた。同時に、25ドルまで下げるはずだった原油価格を60ドルに上昇させ、石油企業と産出国(サウジ・イラン・アフリカ諸国・インドネシア、、、)の手持ちドルを増大させた。現地イラクは石油の大幅な不足である。というよりあのブリコラージュの国、イラクにはもうブリコラージュする材料がない。
このまま、夜は終わってしまいそうだ。手短に切り上げよう。
映画シリアナのポスターではないが、全てはつながっているのだよ、ワトソン君。
* 権力は国家から多国籍資本に移った。米国がこのまま現在のテイタラクを続けるならば資本は簡単に次のパラシュート降下先を見つけるだろう。なお、このテイタラクとは経済諸指数を差すわけではない。経済数値なんぞはドルが幾分上がったり下がったりするだけで大幅にズレル。企業の出す数字も同じで、現在の国境のない資本と国境のある会計システムでは正確な評価は極めて難しい。そしてこの経済権力は常に新しい市場を必要とする。
・ 新資本主義、市場原理主義、あるいはハイパー・リベラリズムは全体主義傾向を持つ。このシステムはツールとしてTVなどのメディア、スポーツイベント、そしてもちろんインターネットを媒介としている。ここでは論理整合性よりは習慣として学習された直感、文章よりは単語、文よりはイメージという新しいヒエラルキーを内在する。マーケティングである。
・ 現在のセルビア状況は、民族主義・ナショナリズムの限界を端的にあらわしていると考える。コミュノタリズムは、閉鎖システムであるがために、最終的には内部から腐敗する。
・ すべてはつながっている:根底にあるのは失業であり、同時に富の集中である:日本でも、米国でも、フランスでも、中国でも、イラクでも、イランでも、パレスティナでも、イスラエルでも、イエメンでも、アンゴラでも、ロシアでも ...
・ 思うこと考えることと、信じること祈ることは明らかに違う。前者の担保はあくまでも自己であり、後者の担保は他者であるだろう。
・ 昔読んだ村上春樹の初期小説にあったアネクドットを思い出した。少年はある日、これからは考えたことの半分だけ口に出そうと決心する。だがしばらくして気がつくんだ。いつのまにか自分は以前の半分しか考えてないんだよ。実際には人間はたとえば、一年前と現在の2時点においての自分の思考総体量の比較、なんて出来るわけないんだから、この表現は論理的ではない。でも、このアネクドットには感心する。だって今の社会状況がそのまんま言い表されてるように思う。これが文学の強みだ。
・ でも論理性とレトリックは別物だ。リトットもアナロジーもメタファーもアレゴリーも、あとなにがあったっけ。忘れたけど、論理性と推論ツールを一緒くたにしてはいけない。そして、目的のない文章は自己培養してもどこにも行きつかない。しかし元気のある文章は、目的が見えないまま出発しても最後には目的を見つけるんだな、これが。
・ でもマーケティングの目指すところは、物を売ることなのだよ。
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