6日のル・モンドから。グリュクスマンの書いたモハメ(ムハンマド)風刺画に関する哲学者の観点をを書いた記事ですが、翻訳に時間がかかってしまいました。哲学者の文章は個々の単語の選びように苦労します。けれど埋もれさせてはもったいない。あえて試訳ということでアップします。なお誤訳部分があった場合、コメント欄でご指摘いただけるとありがたいです。
文明の衝突?いや:哲学の衝突、アンドレ・グリュクスマンChoc des civilisations ? Non : des philosophies, par André Glucksmann
反風刺画キャンペーンは、一新聞に対して始まり、次にプレスの自由保障を求めるデンマークが対象となり、そしてその後ヨーロッパがダブル・スタンダード行使の罪で標的となった。EUはナチズムや歴史修正主義といった『オピニオン』を禁止し罰するにもかかわらず、預言者(プロフェット)を中傷するものは罰せられずにいるではないか?なぜモハンマドをからかうことは許されて、ユダヤ人ジェノサイドを笑ってはいけないのか? と原理主義者はやかましく要求し( à cor et à cri )、アウシュビッツに関する諧謔的まんがコンクールを始める。どっちもどっち:フリー・スピーチ(原文英語、かっこ内が仏語のliberté d'expression)の名において、あるいは公平に、こちら側にショックを与えるものとあちら側を怒らせるものの双方を検閲すべきなのか。風刺画の権利支持者の多くが罠にはまったと感じている。表現の自由の名において、彼らはガス室をひやかすジョーク(des quolibets )を発表するのだろうか?
不敬に対する不敬?違反に対する違反?アウシュビッツの否定とムハンマンドの非神聖化を同レベルに位置させるべきだろうか? ここでふたつの哲学はどうしようもなく対立する。片方はそうだと答える。それらはふたつの等価でともに愚弄された 『信 仰』 である ; 事象の真実と信仰告白の事実のあいだに差異はない ; ジェノサイドはあったという確信(conviction)と、ムハンマンドは天使ガブリエルに開明されたという信念(certitude)は同一カテゴリーに属する。他方は違うと言う。死の収容所の現実性は証明に属し、預言者の神聖性は信者の信仰行為に属するのであるから同一性はない。
同様な事実関係と信仰の識別は西洋思考の基礎である。アリストテレスがすでに、一方に肯定あるいは否定に行き着くための議論対象となりえるような指示的ディスクールを、他方に祈りを分けている。後者(祈り)は議論の対象とはならない。なぜなら祈りは異議を唱えず、嘆願し、誓い、決意し; あるひとつの情報(information)を目指すのではなく、あるひとつの結果(performance)を目指すのであるからだ。
人種や宗教の識別をしない文明化したディスクールは、科学的真実、歴史的真実、そして信仰ではなく知識から由来する事象の状態を分析し限定する。それらを非宗教と内的尊厳とみなすことも出来ようが、宗教の真実とは同一化しない。私達の惑星は文明や文化の衝突の虜ではなく、ふたつの思考方法の聖丘的な決定的戦いの場なのだ。事実は存在せず、ただ解釈があってそれがそのまま信徳だと宣言する者たちがいる。彼らや、あるいは狂信に与する者たち(原文カッコ内:"je suis la vérité" 私は真実である)あるいはニヒリズムに陥るもの(原文カッコ内:"rien n'est vrai, rien n'est faux" 真実はない、間違いもない)。対して、彼らにとって真実と虚偽を分けるための自由な議論にはひとつの意味があるとする人々がおり、従って政治は、科学やあるいは単なる判決と同じように、任意なあるいはあらかじめ決定されたオピニオンからは独立した非宗教的データをもとに機能する。
全体主義的思考は懐疑されることを容認しない。教義的なその思考は、赤いあるいは黒、緑の蒙昧主義の小書をかざし、宗教と政治を融合する。反対に、反全体主義思考は事実を事実とみなし、恐怖やあるいは都合によっては覆い隠したいようなもっとも忌わしいものさえも認知する。グーラグ(ソヴィエトにおける収容所)を明るみに出したことが『現実の社会主義』への批判と拒絶を可能にした。ナチスの嫌悪すべき所為への考察と収容所の実際の解放が1945年以降のヨーロッパ人を民主主義に改心させた。それに反して、最も残酷な真実にかかわる歴史の否定は、凶暴さの再来を予告する。ムスリムの代表者からは程遠い - イスラミスト(イスラム主義者)を立腹させぬためのあるがまま示される事実の否定と、口頭での批判やヨーロッパ人がはぐくみあるいはバカにする権利のある多様な信仰まんがの間に、共有できる態度はない。
何世紀も前から、ジュピターやキリストや、エホバやアラーは冗談の力や不遜なしるしを被ってきた。少なくともこのゲームに関しては、ユダヤ人はヤハウェ(原文:Yaveh、ユダヤ教の神 )への最も優れた批判者である - 彼らはこれをひとつの専門となした。これが、宗派はなんであれ全ての本物の信仰者が信じることや、また彼のようには信じないものが生きることをも妨げない。宗教和平はこの代価の上に築かれる。反対に、ガス室を笑いの種にしたり、強姦された女性や腹を引き裂かれた赤ん坊を面白がったり、テレビにうつる首切りや人間爆弾をあがめる行為は、我慢ならない未来を予告する。
今は民主主義者がその精神を、法国家がその原理を再び見出す時である;(民主主義者と法国家は)ひとつ、ふたつ、みっつの宗教が、四つ、五つのイデオロギーが、市民に言ったり考えたりする権利のあるなしを決めるのではないと、厳粛にまた連帯しつつ思い起こすべきである。これは単に報道の自由に固有な問題ではなく、猫を猫と呼び、ガス室が忌まわしい事実であり、私たちの信仰と宗教心が何であるにしろ忌まわしいことなのだと、言いうる許可の問題である。これはすべてのモラルの原理問題である:この地上にあって、各個人が重んじるべき尊重とは、普遍性(universelle)の共有と、最も明白な非人間性の例を共に拒否することから始まるのだ。
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アンドレ・グリュクスマンは哲学者で、Une rage d'enfant / 子供の激怒 ( Plon, 300 pages, 19,50 € )を出版の予定ANDRÉ GLUCKSMANN
2006年3月4日付け掲載記事
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ヌーボー・フィロソフ OB のひとりであるグリュックスマンはチェッチェン問題からロシア批判、またイラク攻撃を支持したりとジグザグな道をたどっていたようですが、ル・モンドでの文章では、本来の哲学人としてあくまで論理的整合性にこだわっています。人が、まま感情論に行きやすい現在形の世界状況においては、こういったフォンダモンタルにこだわる必要があると思う。
個々の出来事を、低通する思考方法の変容を通して見ていく作業は、EH カーやレイモン・アロンといったリアリストたちが歴史の見方を誤らなかった事実から言っても、今でも、いや今こそ必要なのだと感じます。グリュックスマンにその力量があるか否かは分かりませんが。
これはえらくまともな議論。前の記事のコメントにも書いたのですが、こういうまともな議論をル・モンドで確認しなければならない時代はちょっと悲しい。このテキスト、書き手がグリュックスマンでなかったらもっと威信があったのに、と思ってしまう私はやはりコミュノタリズム的警戒心のなせる偏見におかされたコミュノタリストなのでしょうか。
>あるいは狂信に与する者たち(原文カッコ内:"je suis la verite")
このカッコ内の文句は、ヨハネ福音書に出てくるイエスのことば。確信犯だと思うけど、狂信者の典型的フレーズとしてこれを選んだというのは、なみなみならぬ決意と見ました。rien n'est vrai, rien n'est faux はラ・マルティーヌが出典のようですが、これには特にうらはなさそう。
投稿情報: fenestrae | 2006-03-10 03:42
最近のBHLのプロモーションはしゃぎぶりなどから比べると、かえってsobreなグリュックスマンの文が光る。ここでは文章をこのまま受け取りたいと思います。ここらへんが『哲学』の帰還に結びつくならいいんですがね。
引用文:そこまでは探しませんでした。そうか;さすが師匠、知が深い。同時に猫屋の屋根裏ストックはたかが知れてると確認。キリストさんをひっぱってきたか。
投稿情報: 猫屋 | 2006-03-10 08:59