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2012-04-16

コメント

coucou

こんにちは。

あれから半世紀余りを経て「一億総白痴化」という目的は見事に達成されたようです。

わたしの周りの友人知人、特に都会に暮らすサラリーマン男女たちは、意志どころか意思すら持っていないのかもしれないと感じることがあります。
その行動は、他者による「表面的な評価」と自分自身の「気分」が基準になっているように見えます。
学生時代はそこそこ成績が良かったのかもしれませんが、ネットで仕入れた知識はあっても、知恵や生物的に生き抜く力に乏しいように感じます。

安定的な稼ぎがあり、多忙であることを言い訳に、受け入れ難い現実には「見ざる、聞かざる」に徹していることに疑問をもっていません。
現実を受け入れ、矛盾を抱えながら生きていくことや、自分なりの折り合いをつける努力をするような生き方に対して、彼らは「ダサイ」という否定的な見方をしているように感じます。

人生の甘酸辛苦汁こそ、生きている実感と思うのですが、彼らにとっては「白か黒」、「勝ちか負け」にしか意味がないのかもしれません。

はっきり言えば「コドモの国日本」では、政界でもメディアでもコドモが力を行使し、揚げ足取りやイジメが当たり前に行われているのですから、希望が持ちづらいです。
311以来のもやもやとした気持ちに風穴さえ開きそうにありません。
311は既に無かったことにされつつあるのですから。

桜吹雪の、こんな美しい季節なのに思いっきり愚痴ってしまいました。
失礼しました。

猫屋

どうも、
たしかに、日本と言う「高度消費社会」では、「消費機械」としての市民教育が一番突出してるカンジは受けます。最近のアンケートで、人口内の「弱者への国家援助」が必要ないと答える率が日本ではかなり高かった、と読みました。

こちらフランスでも、40歳代のばりばり“エリート中間管理職”層に、新しい型の自己中個人主義の人々がいて、彼らと話してると時々ちょっと驚かされます。

1987年以降の就職難の波と競争を乗り越えて現在のポジションを今でも維持している彼らの“保守性”は、それ以前のボボ(ボヘミアン・ブルジョワ)世代のノン・シャランとしたとこはなくて、かなり金銭関係とかシビア(要するにケチ)で、同時にかなりアグレッシヴ。ボボ世代が(少なくとも心情的には)元社会党支持だったりしますが、新世代は自分の利権さえ守れれば誰にでも着いていく風情で、これは仏では新型の“リバタイリアン”なのかなあ、とか思います。

ただ、911から311の10年間の過渡期を経て、世界経済・社会・ジオポリも新しい局面に入ったと言う印象を持ってるんですが、これからどんな流れが出てくるのかは分からない。保守が極限まで行って、再びファシズムの誕生まで行くのかもしれない。ガクブルものです。

「なるようにしかならない」のですが、「昨日のように明日もあるだろう」と思うか思わないかはお構いなく、ジワジワと世界は変わっていくのでしょう。世界が変われば、人も変わります(この逆もまた真なり)。

ここは、ちょっと視点をずらして、隠れ「仙人」的に、移り行く季節をめでたほうが(僕は幸福でいることに決めたんだ←たしかヴォルテール)勝ちって気もします。

311の認識も、あと2・3年経って健康被害が実際に数字となって出てきた時点で暗黙のうちに共有されることになるのでしょう。心が痛みます。

せいぜい、可能なところから「言語化」して、認知していくしかないように(これは猫屋のケースですが)思っています。

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