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2006-06-30

コメント

k

猫屋様。 ジダンが復帰して、一点ゴールを決めて成功したからって、誰からも呼ばれても、神のお告げもなかったジョスパンが、「僕も、復帰します。」と立候補の用意をするのは、どうでしょうか?
スポーツと政治、同じ事が通じるでしょうか?

そうそう、わたしの友人の子供がスペインで、少し過ごしたんですが、やっぱりけっこうラシストな国らしいです。 残念なことに。 

猫屋

K夫人さま、
ジョスパンの現実認識にはどうも今ひとつ付いていけません。ポピュリスムに徹しろ、とは決して思わないが、意思表明の時期をいつも“最悪”のタイミングでする。これも彼の政治人としての資質の一部なんでしょう。残念です。社会党最大危機時に“僕責任者おります”と言ってやめちゃったのは誰も忘れていません。

政治とスポーツの違い、これは引退年齢とかありますよね。ジダンは34です。
サッカーについて言えば、極めて“国民性”の“表象”として機能してるなー、とつくづく思っています。よい意味でも悪い意味でも。。とても痛かったりする。サッカーの政治性は、対ブラジル戦にシラクが来たりするのを見てもわかりますが、サッカーと政治はイコールではない。何故?とは聞かないでね、、今考えてるところだから。

レイシズム、、困ったモンデス。こればかりは、(理論的思考を伴う)時間が発たねばなくならない事象のひとつだと思う。なぜなら、
1.実際の生活レベルでの“隣人”としての“他人”を受け入れる経験がないと、なかなか差別はなくならない。実際の“人”ではなくて、表象としての“差異”によってやっと“自己”肯定が出来きてるという仕組み。
2.広い意味での“教育”がレイシズムを失くす可能性を与えると思うけど、TVとかメディア自体が“差異”を強調する方向=つまり社会の階層化というか順番化あるいは商業化のマーケティングをフォンダモンタルにしちゃってるわけで、おまけにマーケティングとしての“いつも正しい(消費し続ける)私”は間違いをアプリオリにはなないと想定されており、間違いをコミットするのはつねに他者であるのだよね。

などと、朝もはよからわけワカランことコメント欄に書いてしまった。買い物に行ってきます。

ぴこりん

グローバリズム、ねえ。
先日、エコノミスト誌のメールマガジンの講読を止めました。世界中の出来事をざっと眺めるのに便利だったのですが、だんだん「資本主義、金儲けになること万歳」な論調(ま、そういう雑誌ですが ^_^;)がいやになってきてしまいました。
政治・経済、完璧な「イズム」って存在しないと思うのです。その間を埋める微調整を誰がどう行うか、そのへんでまた歪んできちゃったりするわけで・・・考えすぎるとまたぐるぐるしちゃいます。

レイシズム。そういえば、イングランドチームって「混ざってます」という感じの若者が多いですね。一方で、フランスの移民出身の選手のインタビューを読むと「ああ、やっぱりフランス人だあ」と思わせたり。面白いです。
例えば、ロンドンは英国じゃない、と言う人もいます。、特にうちみたいにど下町に住んでいたら、いちいち人種やら民族なんて気にしていられません。これが郊外の日本人の多い地域やら、白人の多い地域だと、うっかり勘違いしちゃったり、逆に辛い思いをしたりするようですが。

猫屋

そうなんすよねえ。
たとえば“寛容”なんてのは、現在の商用言語では表に出てこない。信用とか寛容とかのコミュニケーションのベースにあるべきものが、単なるコードバーに置き換えられつつあるんだと思います。だからかえって古臭い、“個”を抑圧するものと考えられてた“宗教”や“ヒューマニズム”とかが、逆転して“個”の主体性を守るものとして機能してしまったりする。“昔はよかった”という発言が、まあ場合によりますが、正しいものと感じられる時もあるのは、自分が歳をとったせいばかりではないよな、とも思う。

たとえば大学と言う場所が、かつてのエスタブリッシュメントとしての“知”の場所としての機能にとってかわって今は“知”の“アラモの砦”になっている。これだって何時まで続くかわからない。

サブカルもコマーシャリズムに侵食されて、かつての前衛というのも不可能になってる。ほんとうにグルグルメマイが止まりません。

pol

こんにちは。
辞表を提出してしまいましたね。
私はフランスのものならなんでも素敵、と思う者ではありませんが、資本主義が行き過ぎてはいまいかと制度的に問題になるこの国はまだまだ健全だと思います。日本だと目先の不正に対する感情論に終始してしまう嫌いがあり(この問題に関してだけではありませんが)、議論が発展していかないのが苦しいところですね。
脱線しますが、猫屋さんが『私有化』という単語を使われていますけど、私もprivatisationは『民営化』と訳すべきではないと思います。『民営化』にしてしまうと国のものから「みんなのもの」になった感じがするのでしょうが、単に「だれかのもの」になっただけなんですけどねぇ。
経済状況の悪化が差別意識を助長するしでほんとに・・・。
ではお邪魔しました。

猫屋

もともと、資本主義の基本は土地や人や権利やなにかの私有化がベースですから、やはり私有化なんだと思ってますよ。“民”という語も難しいです、極めて恣意的使用ができます。peopleですか。

このままで行けば、エコロジー系であるのか、株式系から始まるのかはわかりませんが、どこかで壁にぶち当たるのは明白だと思われます。閉鎖状態が続けば自己破壊に行くし、開発・開拓すべきフロンティアはない。

どうしましょうか。
ではpol氏、また邪魔しに来てくださいな。

ぴこりん

と、今ガーディアンを見たら、テュラム先生が胸のすくようなことをおっしゃってます。
http://football.guardian.co.uk/worldcup2006/story/0,,1809453,00.html
この人も頼れる「兄貴」ですなあ。国歌斉唱に関わる箇所は、日本のヘンな連中にもそう言ってやりたいくらい。

猫屋

フット・ボールってのが面白いのは、たとえば今回のフランスチームの「盛り上がり方」見てても、非常に多くの要素があり、各選手の性格や相性やそれから運もあったりするんだけれど、たとえば性格の違いや生まれ育った環境の違いや宗教やもちろん肌の色の違いなんかを、ひとつの目的のためにベンチにいる選手や、関連人やファンまで含めて一体化させちゃうってことでしょう。監督の采配ももちろんある。でも、これが上手くいくと(8年にいっぺんの割合か、、、)きわめて幸福な共和国的チームになるんだよね、、とか思った。

これはある意味、アートですよ。テニスが「孤独」の劇的スポーツであって、サッカーは「祭りとしての政治」のようなものを表わすスポーツといえるかもしれない。関係性ですよね。

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